阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

パターン

2010年04月10日 | 雲 黒斎
その「理解」は、決して難しいことではありません。

阿部さんが仰るように、あまりにも当たり前すぎて気づかなかった単純なことへの気づきです。

あまりにも単純で、あまりにもシンプル。

それほどまでに単純なことなのに、自我の努力でそこに到達できない原因は、その単純さゆえでしょう。

自我は、自分の枠内でしか物事を捉えることができません。

そして自我には、自分が捉える事が出来ない領域に対して行う、いくつかの典型的な反応パターンがあります。


1.「目覚められないのは、自分の能力の低さに原因がある」と思い込んでいるパターン

このパターンは、「自分にそれを捉える事ができないのは、そのことがとても難しいことなのだろう」という錯覚から生まれます。

その錯覚を起点としているため、「目覚め」のために「難しい事を解釈できるようになろう」という努力になりがちです。

しかしながら「それ」は「難しい」ことの対極にある「簡単さ」の中に存在しているため、努力すれば努力するほど「それ」から遠ざかってしまいます。

これまでいろいろな宗教で誤って語られてきた「修行」の数々が、これにあたります。

「これをして徳を積みなさい」「これをして自分の愚かさを正しなさい」

そうやって「自分を高め、霊的な垢を落としたのちに、やがて目覚めは訪れるのです」という未来思考。

これ、言葉を変えれば「神との取引」です。

「神様、ボク、いい子にするから幸せにしてください!」という態度です。

しかしながら、よくよく考えれば、これほど馬鹿馬鹿しいこともないですよね。

なんだってわざわざ「取引によって人を幸せにしたり、不幸せな目に遭わせる、懐の狭い神様を崇めようとしているのか」ってことですよ。

神様って、「お前はいい子だから天国にいさせてあげよう。お前は悪い子だから地獄でアタマを冷やせ」なんて、そんな意地悪しますかね。(笑)

どうせ偶像を作り出すなら、どんな悪い子にだって「よしよし。もう牙をむかなくても大丈夫だよ。君のこともちゃんと愛しているからね」って抱擁してくれる、そんな神様を崇拝すりゃいいのに。


2.「そもそも自分が捉えられない領域などない」と、その領域の存在そのものを受け入れないパターン

仏教で言われるところの煩悩の一つ、「疑」に近いニュアンスかもしれません。

「目覚め」という状態そのものが理解できないので、「そんなのは嘘だ」と、話に聞く耳を持てない状態。

かつての僕がこの状態でした。

「霊」や「神」等と言った単語があるだけで、そこに「いかがわしさ」を感じ拒否反応を示していました。

そもそも聞く耳を持っていないので、その手の話の場に参加するとしても、単に自分の持つ「受け入れられない理由」を一方的に表明するのみですので、話を続けたとしても相互コミュニケーションにはなり得ません。


3.とにかく自分の枠内において理解しようと四苦八苦するパターン

自分の知り得なかった領域を、自分の知り得る範囲内で理解しようとしてしまうパターンです。

まぁ、その気持ちもわからなくもないですが、よくよく考えれば絶対に答えにたどり着けないとわかる道のり。

その愚かしさは、海外旅行の醍醐味を、なんとか日本国内で味わおうとするのに似た滑稽さです。

枠外のことは、枠内で理解することはできません。


文章にする分には、こうやって簡単にいくつか書き出す事ができるものですが、しかしながら、やっぱりこの話が通じないことが多いんだよなぁ…。




 

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