「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-4」のつづきです。
浄瑠璃寺からのバスを近鉄奈良駅前で降りた私は、近鉄電車に乗って大和西大寺駅へ行きました。
次なる目的地・秋篠寺は、大和西大寺駅から歩けない距離ではありませんが、
せっかく路線バスの1 Day Passを持っていることですし、待ち時間もさほどありませんので、バスで秋篠寺へ向かいました。
途中、奈良競輪場の駐車場らしきところで、こんな看板を見かけました。
だそうです。
ゴルフにはとんと縁が無く、興味も持っていない私としては何の影響もなく、どちらかといえば、この看板が指摘するとおり、私に危害を加える可能性を持つスポーツですので…、まぁ、ノーコメントとさせていただきます
この奈良競輪場を除けば、バスは、ほぼ住宅街の中を走り抜け、あまりにも道幅が狭くて誘導員さんが配置されている曲がり角に「秋篠寺」のバス停がありました。
バス停からちょいと歩くと、
こぢんまりとした秋篠寺の門(東門)があり、ここから境内に入りました。
苔むす「金堂跡」がきれいで、私の体からストレス(すでに浄瑠璃寺でかなり抜けていましたが…)が音をたてて抜けていくようです
と、「金堂跡」と「本堂」、お寺のメインが二つ現れて、あれ? となったところで、リーフレットから引用します。
奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により地を平城京大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほぼ時を同じくしてその完成を見、(中略)
保元元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、(中略)
鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のままに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。
だそうです。
そして、いかにも天平風の本堂(国宝)は、
当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以降鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ち着きを見せる純和様建築として注目される。
だそうです。
ここでも出てきました、平安時代末期の争乱と、鎌倉時代の再興、そして、廃仏毀釈。
廃仏毀釈は全国的な熱病だったようですが、興福寺や東大寺の沿革をふり返っても、上記の3点セットは、とりわけ奈良にとってエポックメイキングなできごとだったような気がします。
そんなことを考えたわけですけれど、きょうはここまで。
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