新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

板橋・志村界隈を散歩してみた

2012-10-13 19:36:49 | タウンウオッチング

野暮用で出かけたついでに、板橋の志村界隈を散歩してみました。

国道17号線中山道 福寿通りが交差する「志村警察前交差点」こんもりとした林があります。

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柵の上にある「TOPPAN」という大きな看板が示すとおり、凸版印刷でして、珍しいことに交差点を向いてがあります。

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この中山道に面した敷地は、見たところ空き地になっている部分が多く、「現役」の感じはしません。
そもそも、こんな場所に作られた門からクルマが出入りするのは、そうとう無理があります。

ここから福寿通りを1ブロック南西に入った場所に、広大な面積を持つ工場が立っています。


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この工場、ずいぶん前から気になる建物でして、きょう、初めて写真を撮ってきました(いつものコンデジではなく、ガラケーで撮りました)。

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この工場の門も、交差点を向いているのですが、コチラは小さな交差点ですので、クルマの出入りはさほど難しくなさそうです。

それはそうと、階段状になった時計塔アールのついた玄関、そして、これまたアールのついた守衛所、大変によござんす

いかにも昭和初期っぽい

帰宅して調べてみますと、凸版印刷のHPに記述を見つけました。

1938(昭和13年) 板橋工場を竣工、操業開始

として、

そこで当社は、将来の印刷需要の増大を前提として、他社と比べて劣らない規模の設備を備えた新工場建設の方針を決め、直ちに建設計画に着手しました。
新工場の板橋工場は、総坪数約6万6000平方メートル。工場の建物は4万平方メートルあり、洋風庭園と運動設備を備え、当時の工場のイメージを一新する近代的な工場でした。

とのこと。やはり昭和初期でしたかぁ…

板橋区作成のこちらの資料(PDF)に竣工当時の写真が載っているんですが、

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全然変わっていないといっても過言ではありません

前出の資料によれば、

 終戦間近の昭和20年。連日、東京各地に空襲が起きる中、板橋工場においても戦火から逃れることなど出来ません。同年の4月13 日には、板橋工場周辺が空襲の大きな被害を受けました。工場内にも38 発もの焼夷弾が落下しました。総動員で消火活動を行い、約4時間の空襲を乗り越え、奇跡的にもほぼ無傷の状態で残りました。しかし、板橋工場の周辺はほとんど焼失し、焼け野原となってしまいました。

だそうで、戦火を生き抜いた建物だったんですねぇ…

どうでもよい話ですが、福寿通りの案内標識、いまや珍しくなった「浦和」の地名が表示されていました。

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最近はほとんどの案内標識が「さいたま」に書き替えられているのにネ。

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どうか今後も生きながらえて欲しいと思います。
どうか、トラックの積み荷に引っかけられてこれ以上破損しまんせんように

ところで、中山道に面したブロック、東側の2辺で囲われているのですが、西側の2辺は、

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レンガ造りで囲われていました。

しかも、

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またもや登場、覆輪目地 そして、「煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む」イギリス積み

ちなみに東京駅丸の内駅舎のレンガは、東京ステーションギャラリーでいただいた資料(下に一部を載せておきます)によれば、構造用レンガがこのイギリス積み、外壁の化粧レンガ小口積みだそうです。

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板橋は、凸版印刷の工場が置かれたことがきっかけになって、現在も印刷業が盛んです。王子・十条製紙板橋印刷、荒川を挟んで戸田製本と、小学校の社会科で勉強するような産業立地なんですなぁ。

   

「小学校の社会科」といえば、これまた小学校で勉強した「一里塚」がほど近い場所に残っています。

国道17号線中山道を挟んで道の両側に、石積みでしっかりと守られた「塚」が鎮座しています。

こちらが北東側の一里塚で、

121013_1_07_2 こちらが南西側の一里塚。

121013_1_08 南西側の一里塚は歩道の外側にあるのですが、北東側の一里塚は車道ぎりぎりの場所にあります。

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このため、歩道は一里塚をぐるっと迂回してつくられています。

121013_1_10 私が志村一里塚を「迂回して歩いた」のは、一年半前、「3・11」の時以来です。
丸の内から中山道を通って浦和まで歩いたんでしたっけ…

板橋宿までは元気だったものの、この辺りまで来て、近くの店で小休止してからは足がガクガクだったっけなぁ…なんて思い出します(記事はこちら)。

志村一里塚には板橋区教育委員会による説明板が設置されているだけでなく、枝落としの跡も新しくて、しっかりと保存されていることが見てとれました。

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せっかくですから、長文になりますが、説明板を転記しておきましょう。

江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の整備を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(4km弱)ごとに、道を挟んで2基づつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。

国の史跡に指定されてから板橋区の史跡に登録されるまで60年以上かかっていることの突っ込みは置いといて一見の価値のある「史跡」だと思います

   

上の方に、「板橋印刷」と書きましたが、板橋の産業といえば他に「光学」トプコンとかペンタックス本拠地)や「薬品」がありますが、それともう一つ、世界に名を馳せるメーカーがあります。
住宅街の中で、町工場的な音を響かせて操業しているこちら

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サクソフォン・メーカーの柳沢管楽器です。

私、中学・高校の頃、吹奏楽をやっていまして、当時、Saxパートの連中は、

プリマ(ヤナギサワ)ヤマハ<…<セルマー

というヒエラルキーを信奉していました。
それからウン十年が経ち、板橋で生産したSaxを世界各国に輸出しているヤナギサワ、米国・カナダでの販売代理店は、コーン・セルマーとな

Wikipediaで「セルマー」を調べれば、

セルマー・カンパニー(The Selmer Company)またはセルマーUSA(Selmer USA)は、かつてアメリカに存在した楽器メーカー。

とにべもない…

時が流れれば、どの業界でも会社ごとの栄枯盛衰があり、合併・提携が行われて、勢力図が変わっていくんですなぁ…。

そんな感慨を覚えながら、柳沢管楽器の更なるご発展を心から祈念する私でありました。

コメント
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