─光る波の間─

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おばあちゃん

2004-07-23 19:53:17 | 弘前
共稼ぎだったから、小さいころはおばあちゃん子でした。
明治生まれで、いつも着物と割烹着。
小さな薄紫の石のついたかんざしをさしてました。

こたつでうたた寝。
三味線で「ドレミの歌」
花札で七並べ?(笑)
幼稚園のお迎え。
お昼のインスタントラーメン。

小さい私にはわからなかったけど、そのころにはもう
おばあちゃんはお酒に頼って生きていました。タンスの奥に隠して。
強い痛み止めも乱用していました。
明治生まれの我慢強さが災いしてか、体を壊して痛みがあっても「痛い」と言わず、
辛いことがあっても「辛い」と言わなかった。

だから、痴呆の症状が現れてからも「痛い、辛い」と言わずに
「死にたい」と言うのでした。

思い起こせばおばあちゃんは、傍で遊んでいる私に、
それは穏やかな顔で「早ぐ、おじちゃ迎えに来ねがな」と
よく言っていたものです。
私はただぼんやりと聴いていて、自分の遊びに夢中。
ただそこに居て、聴いているだけの私だったから言いやすかったのかな。

こんなことを言ったこともありました。
「おじちゃが死んだとき、病院でりんごの皮を剥いてたら、
おじちゃが‘おばちゃ・・・’って言ったから、‘なんだ?’って聴いたら、
もう返事ねがった。‘おばちゃ’って言ったの、最期であったの」

おばあちゃんが亡くなって、少しして、父にこの話をしました。
父は目を伏せたまま、「その話は初めて聴いた‥」とつぶやきました。

入院しても、いつも「家に帰りたい」と言っていたというおばあちゃん。
もう、私の顔を見てもたいした反応もしなくなっていました。
そして結局、病院で亡くなりました。
どういう病状だったのか、私はほとんど知らされていず、
「おばあちゃん死んだから、すぐ病院に来なさい」と言われても、
何が起こったのかよく理解できなくて、ぼんやりとしていた記憶があります。

病院に着いて、「おばあちゃんの顔、見なさい」と病室に連れていかれるときに
急に体全体が拒否して足を踏ん張り、背中を押すおばさんに抵抗しました。

“見てしまったら本当になる!”だから見たくなかったのに!

‥‥一晩中絶やさないろうそくの火。
昔のろうそくはたくさん蝋が流れて、様々な形をつくり出しました。
空を飛ぶ天女のような形や、2枚の蓮の葉の上に人が座っているような形。
「きっとおばあちゃんは極楽に行って、おじいちゃんに会ったんだね」と
親族中で眺めていました。

週末が、おばあちゃんの命日です。。。