《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

モーツアルト「浴」

2011-01-26 00:00:00 | 日記
2008年1月26日(土)晴
 私は、昔から「音楽」が嫌いだった。なぜか。「歌う」ことが下手だったからである。小学校の授業では「歌う」ことばかり強制されたような気がする。「音を楽しむ」ことが音楽であるはずなのに、どうして歌わなければならないのだろうか。そうした「憤り」は、年長になるにつれてますます強くなった。特に、学期末に行われる「歌唱」の試験は憂鬱だった。一人一人クラス全員の前で課題曲を歌わなければならないからである。小学校4年は「野菊」、中学校では「オールドブラックジョー」を階名で歌わされたことを、今でも憶えている。そんな私が、クラシック音楽に関心を持つようになったのは、還暦を過ぎてからである。動機は至って単純、しかも不純であった。オーケストラで使われる楽器の数々は、さだめし高価な物に違いない。それを演奏できるようになるためにも、高価な授業料が不可欠であろう。だとすれば、楽団に結集した団員の演奏技術、手にしている楽器の金額を合計するとどれくらいになるのだろうか。おそらく数千万円は下らないだろう。だから、そこで演奏される音楽の価値を享受できないことは「損」である。そんな不純な動機(損得計算)で、眠くなるのを我慢しながら、私はテレビのクラシック音楽を視聴するようになったのだが・・・。最初に聞いたのはチャイコフスキーの「悲愴」だった。この交響曲はチャイコフスキーの遺作だという。彼はまもなく自死するので、その死生観が色濃く反映されているように思う。「いつ始まったかわからない」「いつ終わったかわからない」曲の特徴は、いかにも私たちの「生」と「死」を暗示しているようだ。「たよりなく」「不安定な」雰囲気(曲想)が基調になっており、終末近くでは、音が次第に弱くなる、もう終わりかと思うと、息を吹き返したように、また強まり・・・、そして弱くなる、そうしたフレーズを数回繰り返しながら、とうとう本当に何も聞こえなくなってしまう。気がついたときにはもう終わっていた、という按配で、それはまさに「臨終」の息づかいに酷似していると思った。その直後に、今度はベートーベンの「第九」を聴いたが、まるで雰囲気が違う。そこには「生きる喜び」というか、あふれる精気がみなぎっており、その力強さに圧倒されるようだった。音の「繊細さ」「美しさ」「癒し」という点では、「悲愴」が優っているように私は感じた。
 以来、しばらくクラシック音楽に親しんできたが、今ではモーツアルトのCDが私の必需品となっている。「音を楽しむ」どころではない。日光浴、森林浴、温泉浴と同様に、「モーツアルト浴」の効果を確信できるようになった。CDのタイトルは「モーツアルト・ミュージック・セラピー」(パート2・血液循環系疾患の予防<高血圧、心筋梗塞、動脈硬化、脳梗塞など>監修・選曲・解説:和合治久・埼玉医科大学短期大学教授)である。収録曲は、①ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466・第2楽章・フリードリヒ・グルダ(ピアノ)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:クラウディオ・アバド、②ピアノ・ソナタ第15番ハ短調K545・第1楽章、第2楽章・アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)、③ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K216・第1楽章・キドン・クレーメル(ヴァイオリン)、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:ニコラウス・アーノンクール、④弦楽五重奏曲第3番ハ長調K515・第2楽章、第4楽章・メロス弦楽四重奏団、他、⑤ピアノ協奏曲第23番イ長調K488・第1楽章・ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)・ロンドン交響楽団 指揮:クラウディア・アバド、である。
 私はモーツアルトの愛好者(鑑賞者・素人)であって、専門家(研究者)ではない。その独断・偏見によれば、モーツアルトの「音楽」は、私の心身を「実に快く」マッサージしてくれる。その曲想は、「音の万華鏡」とでも言えようか、それぞれの楽音が宝石のように煌めきながら、疲れた心身に降り注ぐのだ。たとえれば、ピアノは「指圧」、ヴァイオリンは「摩擦」効果によって全身を刺激し、クラリネットは、そのフレーズによって「呼吸を整え」てくれるのである。「音楽」は、「耳で聴く」だけではない、楽音を「全身で浴びる」ものであることを、私は学んだ。モーツアルトの音楽は、副作用のない「薬」ではないだろうか。解説には、「・・・高周波のモーツアルトの音楽はさらに効果的に副交感神経が分布する延髄に作用します。この結果、延髄から出ている顔面神経や舌咽神経が刺激されて唾液が出るようになるとともに、心臓や肺、小腸などの内臓にも迷走神経として分布している副交感神経が交感神経の作用に拮抗していくのです。したがって、交感神経優位から生じる病気にブレーキをかけ、その予防や改善につながるといえます。たとえば、モーツアルトの音楽療法で高血圧や激しい心拍がストンと下がったり、唾液がたくさん分泌されるなどの現象、あるいは胃などの消化管活動が高まり便秘が改善されるなどは、よく体験できることなのです」と、書かれている。
 私自身、今から9年前(54歳時)、「脳梗塞」(無症候性)と診断され、以後、服薬治療(パナルジン1日2錠)を続けてきたが、最近の通院時、医師から「症状の進行が見られないので服薬は中止してもよろしい。どうしますか?」と言われたほどである。
まさに「モーツアルト浴」の結果を確信しているのである。

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大歌舞伎・「御所五郎蔵」と「身替座禅」

2011-01-25 00:00:00 | 日記
2008年1月25日(金)晴
 午後10時30分から、NHK教育テレビ「芸術劇場」(大歌舞伎・「御所五郎蔵」「身替座禅」)視聴。「御所五郎蔵」の配役は、五郎蔵・仁左衛門、星影土右衛門・左団次、傾城皐月・福助、甲屋与五郎・菊五郎他、この芝居のキーパーソンは、傾城皐月であり、見せ場は、その五郎蔵に対する「あいそづかし」(実は見せかけ)の場面だと思われるが、福助の「力量不足」で、その雰囲気を醸し出すことができない。福助は、児太郎時代、若手女形として多くの可能性を秘めていた。しかし大御所・中村歌右衛門の薫陶を受け(させられ)、その芸風を踏襲する(せざるを得ない)立場になってから、本来の「初々しさ」「茶目っ気」、「コミカルな」表情・所作が影を潜め、歌右衛門流の「型」にはまってしまったように感じる。目をつぶって口跡だけを聞いていると、「まさに歌右衛門」そのものなのだ。私の独断と偏見、邪推によれば、歌右衛門は、女形の「伝統」「品格」を最も大切にした役者であり、「大衆受け」する阪東玉三郎的な「芸風」を「品がない」と切り捨てたのではないか。私自身、昭和20年代の舞台を見ているが、当時、女形として活躍していた歌右衛門、尾上梅幸、(時には中村時蔵)などよりも、片岡我童、澤村訥升の「艶姿」の方が印象に残っている。ただ一つ、歌右衛門の「当たり役」として、「東海道四谷怪談」の「お岩」は出色であった。特に、「髪梳きの場」以降、亡霊になった「お岩」が「伊右衛門」を苦しめる姿(所作・口跡・表情)は、何とも恐ろしく、迫真の演技であった。以来、「歌右衛門といえばお岩」という連想がこびりついてしまい、どんなに華やかな舞台であっても、歌右衛門の姿を見るたびに「お岩の亡霊」を感じてしまうのである。
 福助が歌右衛門を目指すことに異論はない。それが大歌舞伎の「伝統」というものであろう。ただ、歌右衛門の芸風に盲従すればするほど、「大衆」から離れた世界に落ち込んでしまうのではないか、と私は思う。 
 「身替座禅」の配役は、山陰右京・団十郎、太郎冠者・染五郎、奥方玉の井・左団次。奥方をだまし、愛人のところへ駆けつけるまでの団十郎は「まあまあ」だったが、遊興から帰宅した後の所作(舞踊)が、いかにも「退屈」である。それが現・団十郎の実力であり、仕方がないとはいえ、奥方・左団次の所作が秀逸なだけに、残念である。日頃は「立ち役」の左団次が、奥方玉の井を演じるのは余興。重厚であり、かつ涼しげな風情を感じさせる「上品」な姿であったが、一転して悋気に狂った表情は「立ち役」そのもの、そうではなく、鬼気迫る「般若」(女性)の気配が欲しかった。

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「雁」(森鴎外・大正2年)〈「日本文学全集5・新潮社〉

2011-01-25 00:00:00 | 日記
2008年1月20日(日)晴のち曇
森鴎外の小説「雁」(大正2年・「日本文学全集5・新潮社」)読了。主なる登場人物は、物語の語り手である「僕」、その学友・岡田、石原、無縁坂に囲われている美女・お玉とその父、お玉の旦那・高利貸しの末造とその妻、以上7人である。物語の舞台は、東京・本郷周辺(湯島・上野不忍池・無縁坂)、時代は明治13年の出来事ということになっている。では、その出来事とは何か。大した出来事ではない。不忍池に群れていた雁の一羽が殺されたのである。殺したのは「僕」の学友・岡田、それも故意ではなく偶然の結果である。その日、下宿屋の夕食が「鯖の味噌煮」であることを知った「僕」は、それが「身の毛の弥立つほど厭な菜」と感じていたので、岡田を誘って散歩に出る。二人が不忍池まで来たとき、「岸の上に立って何かを見ている学生らしい青年」・(顔見知りの)石原に出会う。「こんな所に立って何を見ているのだ」と「僕が問う」と、「石原は黙って」「十羽ばかりの雁が緩やかに往来している」様子を指差した。そして「あれまで石が届くか」と岡田に言う。岡田は「届くことは届くが、中るか中らぬかが疑問だ」と答えると、石原は「遣って見給え」と言う。「岡田は躊躇した。『あれはもう寝るのだろう。石を投げつけるのは可哀想だ』石原は笑った。『そう物の哀れを知りすぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる』岡田は不精らしく石を拾った。『そんなら僕が逃がして遣る』つぶてはひゆうと云う微かな響きをさせて飛んだ。僕がその行方をぢっと見ていると、一羽の雁が擡げていた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずにもとの所にいる。『中った』と、石原が云った」。
明治13年の出来事とは、以上のとおりである。いわば、若者が悪戯半分でやった遊びに過ぎない。しかも、岡田が「逃がしてやる」と善意で投げた石が、運悪く一羽の雁に命中してしまったのだ。その後、哀れな雁は「僕」、岡田、石原たちが催す酒宴の肴になってしまうという、後味の悪い物語である。
 ではいったい、この小説が文豪・森鴎外の作品として古典化しているのはなぜか。その背景に、「僕」が羨ましいと感じているほどの才子・岡田と、無縁坂の美しい囲われもの・お玉との「淡い」交情が秘められているからである。岡田とお玉の交情は、顔を合わせた時、互いに挨拶を交わすほどの「かかわり」に過ぎないが、「僕」は感じている。秘かにお玉が岡田を恋慕していることを・・・。また、お玉の旦那・末造の女房も感じている。亭主が秘かにお玉を囲っていることを・・・。しかし、日常は淡々と過ぎていくだけで、何事も起こらない。「出来事」といえば、一羽の雁が運悪く殺されたということだけである。その翌日、岡田は縁あってドイツ留学に旅立ち、お玉との交情は断絶する。おそらく、「僕」自身は、哀れな雁とお玉の運命を「二重写し」に見ているのだろう。いや、他ならぬ「僕」自身が秘かにお玉を恋慕していたのかも知れない。それかあらぬか、この物語は以下の文節で終わっている。「一本の釘から大事件が生ずるように、鯖の味噌煮が上条(注・下宿屋)の夕食の膳に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしてしまった。そればかりでは無い。しかしそれ以上の事は雁と云う物語の範囲外にある。僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えてみると、もうその時から三十五年を経過している。物語の一半は、親しく岡田に交っていて見たのだが、他の一半は岡田が去った後に、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。例えば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の映像として視るように、前に見たことと後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのがこの物語である。読者は僕に問うかも知れない。『お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたか』と問うかも知れない。しかし、これに対する答も、前に云った通り、物語の範囲外にある。只僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは論をまたぬから、読者は無用の憶測をせぬがよい」
 読者にとって、何とも思わせぶりな結末ではあった。

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「日本の名随筆91・裁判」(佐木隆三編・作品社・1988年)

2011-01-24 00:00:00 | 日記
2008年1月19日(土)晴
 「日本の名随筆91・裁判」(佐木隆三編・作品社・1998年)読了。田中美知太郎、徳富蘆花、川端康成、宇野浩二、伊藤整、渋沢龍彦、野坂昭如、大岡昇平、木下順二、亀井勝一郎、中野重治、正木ひろし等に交じって、倉田卓次という人が「裁判官の国語力は中学生並か・給付判決文の用語をめぐって」という随筆を書いている。巻末の「執筆者紹介」によれば、著者は「1922年生まれ 裁判官。公証人を経て弁護士。東京帝国大学法学部に進学するが学徒出陣となり、戦後東京大学に復学して卒業。東京家地裁判事補を皮切りに、札幌高裁判事となる。民事実務畑を歩いた経験を生かした『民事交通訴訟の課題』『交通事故賠償の諸相』『民事実務と証明論』などの著書がある。他の著書にエッセイ集『裁判官の書斎』四冊、『裁判官の戦後史』二冊などがある」そうだ。今回、その著者の作物を初めて読んだが、たいへん面白かった。文章の内容は、著名な科学評論家・鎮目恭夫氏が法律雑誌に「先ごろ私は、ささやかな民事訴訟に巻き込まれたおかげで、日本の裁判官や弁護士を養成する司法研修所の先生方の国語能力がせいぜい中学生並だということを発見した」と書いたことへの反論である。著者は以下のように書いている。<鎮目恭夫氏のエッセイは(略)『連帯債務者への各自支払』の主文の問題をあげつらったものである。氏が友人のワープロリース契約の連帯保証人になったことから、友人と氏とに対する「被告らは、原告に対し、各自90万円を支払え」という判決文が届いた、というのだが、それに対する氏の感想は、皮肉な、というか、嘲笑的というか、ひどく悪意のある行文なので、要約するより、そのまま原文の一部を引く方がニュアンスが伝えられよう。『さて、私は判決文を見て、各自90万円だから二人で180万円、ずいぶん値上げした判決だとあきれて、控訴を決意した。そして知り合いの弁護士に相談したら、「ああ、その“各自”というのは“連帯して”と同じ意味ですよ」と言って、司法研修所編『民事判決起案の手引き』をみせてくれた・・・。「数名の被告が原告に対し連帯債務を負うものと判断した場合、(判決の)主文に『被告らは、原告に対して各自○○円を支払え』と書く場合と、『被告らは、原告に対し、連帯して金○○円を支払え』と書く場合とがあるが、どちらでも差し支えない。前者は、右のような共同訴訟は、ほんらい被告各自に対する請求を併合したもので、したがって判決の主文も、被告ごとに独立したものであり、他の被告との連帯関係のごときは、理論上主文に表示する必要がないという見解によるものである・・・」この通りの悪文で、昔の代官風の言い廻しも含むのはさておき、論理的にみると、判決主文に簡潔のための「連帯して」を書かないのはいいが、そうなら「合計○○円を」とか、単に「○○円を」と書くべきで、「連帯して」の代わりに「各自」と書くのは論理上絶対的な誤りだ。「各自」と「連帯して」の区別をつけない頭では、高校の入学試験でさえ、国語と数学では落第確実だ。社会科なら超優等になるかもしれない。・・・」(略)現職の裁判官当時だったら、時間をつぶして係り合う気にもなれぬアホくさい文章であるが、今はその位の暇はあるし、筆者自身は大まじめに書いているようだから、一応本気で返事しておこう。」ここまで読んで、私は鎮目氏の感想はよく理解できた。まったくその通りだと思う。しかし著者の返事(反論)は以下の通りである。<連帯債務関係にある複数被告に対する給付の主文は、私が修習生の時は、「連帯して」「各自」「合同して」を連帯債務、不真正連帯債務、手形債務で使い分けるように教わった。(略)ちなみに、ドイツの判決でも(略)〔連帯債務者〕に対する主文では(略)「連帯して」を加えるのが常である。(略)しかし、理論的には「各自」の方がいいということは戦前からいわれていたことで(略)その頃の判決例もある。(略)理論上は「各自」でいいのだが、便宜上「連帯して」にしている例が多い(略)。しかし、昭和43年に坂井芳雄判事の論文(略)が理由中の判断に既判力がない以上、連帯は確定されていないのだから、主文に「連帯して」とするのは誤りであると、改めて明確な指摘をして以後は、実務上でも「各自」とする人の方が多くなったようである。(略)しかし、通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯責務の場合とを書き分けたいという裁判実務上の志向は払拭しがたいものがあり、結局、「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのが、いつか一部の実務家の間では、連帯債務、不真正連帯債務、手形債務等にのみ使われる特殊な意味を担うようになり、そういう関係にない甲、乙それぞれが同額の給付義務を負う場合は「各」を用いて、違いを書き分ける人も出て来た。(略)以上を予備知識とした上で・・・>というように著者の返事は綴られていくが、専門外の私には、その予備知識が理解できない。①「連帯して」は連帯債務、「各自」は不真正債務、「合同して」は手形債務と使い分けることが原則であり、ドイツの判決でも、連帯債務者に対する主文では「連帯して」を加えるのが常なのに、理論的には「各自」のほうがいいと戦前からいわれていたのはなぜだろうか。②鎮目氏の事案は、連帯債務なのか、不真正債務なのか。(連帯債務と不真正債務とはどう違うのか)③通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯債務の場合とはどう違うのか。鎮目氏の場合はちらなのか。④「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのなら、鎮目氏が、元来の意味で理解することは当然ではないだろうか。著者の返事(反論)は、さらに続く。<鎮目氏の事案をみると、氏の非難の見当外れは明らかだ。氏は友人のほかに自分にも同金額の支払いを命ぜられたのを不満とはしていないが、それは連帯保証した以上当然で、友人のとは別の手続で自分だけを相手にする訴訟を起こされても仕方なかったところなのだ。それが二人一緒だから(略)「被告各自に対する請求を併合したもの」となって、本来なら主文で「甲は90万円支払え」「乙は90万円支払え」と二つ別々に並べるところを、同じ金額だから纏めて「各自」とやっているのである。判決理由を読めば、連帯債務であることは分かった筈である。二人共に支払う必要はないのだが、主文としては別々に「甲は支払え」「乙は支払え」とせなばならないのは、いくら判決で支払えといわれても、素直に支払う人ばかりではないから、それを債務名義として強制執行するためでもある。(略)鎮目氏は、主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところを全然理解せずに・・・というより、おそらくそういう問題を何も知らずに(高校の社会科なら教えるだろうから、この人の裁判制度理解は中学生並といえよう)・・・判決書を裁判官が被告に出した手紙かなんかのように考えて、その文言を批判しようといきまいてしまったのである>。
 この返事(反論)を読んで、鎮目氏は納得しただろうか。「主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところ」を理解している国民が、法曹関係者を除いて何人いるだろうか。「債務名義として作られる」という文言も、私には意味不明である。「として」という句を国語(文法)的に解釈すれば、主文イコール債務名義ということになる。それとも「債務名義に対して」という意味なのだろうか。要するに「判決の主文を読むのは『法知識(人)』であって、被告という立場の(無知な)人間ではない」という返事(反論)であったように思う。著者の意識下には「我々、専門家を中学生呼ばわりするなどもってのほか、素人が何をほざくか」といった「「憤り」「思い上がり」があるようだ。私が面白かったのは、かたや著名な科学評論家、かたや東大出の裁判官経験者が、お互いに相手を「中学生並み」と罵倒しあっている「情けない」姿である。国民全体の「平均学力」は小学校4年レベルといわれていることを、この二人は知っているのだろうか。相手を「中学生並み」と罵倒することは、同時に、国民全体を「小学生並み」と罵倒していることに他ならない。「知識人」と呼ばれる人たちの「貧弱な情操」を垣間見ることができたような気がする。

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「日本温泉めぐり」(田山花袋・角川春樹事務所・1997年)と「法師温泉・長壽館」

2011-01-23 00:00:00 | 日記
2008年1月23日(水)雪のち雨
 「日本温泉めぐり」(田山花袋・角川春樹事務所・1997年)を読み始める。解説によれば、花袋は明治人、「旅行家」と自称するくらい全国各地を歩き回り、数多くの紀行文を残したそうである。私も行ったことがある「吾妻の諸温泉」という章から読み始めた。「自然主義」作家の文体で、わかりやすく平易に綴られていたが、解説にもあるように「大きな声では言いづらいのだが、花袋は小説も紀行文も技巧的にも先天的にもうまさというものが少ないと思う。そのために、体験が稚拙なほどに羅列されているのだが、とにかく、事細かだけに真実味がある」(塩野米松・作家)。吾妻の諸温泉として、四万、沢渡、川原湯が挙げられていたが、「法師温泉長壽館」が欠落していたのはなぜだろうか。私の稚拙な雑文で埋め合わせたい。

<温泉素描・法師温泉長壽館・群馬県>
今や、群馬県法師温泉「長壽館」は<国宝級>の温泉となった。
国鉄の観光ポスターで一躍有名となったが、「俗化」するどころか益々「秘湯」への道を極めつつあるのである。ここを訪れたさまざまな人々に「温泉とは何か」を教えてくれる稀有な温泉である。
 湯は透明で、浴槽の底に敷かれた玉砂利の間から、一泡、二泡と数秒間隔で沸き上がる。それは大地のやさしい息づかいにも見え、傷ついた私たちの身や心をあたたかく包み込んでくれる。飲めば卵酒に似て、都会生活で汚染された私たちの五臓六腑に沁みわたり、種々の毒物をきれいに洗い流してくれるようだ。
 温泉の真髄は「泉質」にあるが、ここではその「泉質」をさらに磨き上げようとして、ありとあらゆる工夫がなされている。たとえば、浴槽、浴室、客室にふんだんに取り入れられている木材の活用である。浴槽は木枠で大きく四つに仕切られ、ひとつひとつの浴槽には太い丸太が渡されている。それは私たちが長時間、湯に浸るための枕なのである。湯は絶え間なくあふれ、浴槽に沿って造られた排水路からすべるように流れ出ていく。見事な設計である。浴場は窓枠の鉄を除いて、床、壁、天井にいたるまで、すべてが木造建築である。浴槽の中で丸太に身をあずけ天井を見上げれば、組木細工にも似た匠の技を心ゆくまで味わうことができる。湯滴がポツリと落ちてくることなどあり得ないのである。浴場は毎朝の手入れによってどこまでも清潔に保たれているが、窓枠に張られた蜘蛛の巣を見逃すことはできない。浴場にしつらえられた行燈の灯りを求めてやってくる蛾や羽蟻をそれとなく防いでくれるのであろう。
 ふんだんに取り入れられた木材の活用は、私たちの嗅覚をなつかしく刺激する。遠く過ぎ去った日々への郷愁をあざやかに呼び起こしてくれるのである。玄関、廊下、客室にただよう独特の匂いは、まさに「日本の家」の匂いであり、幼かった日々の思い出や、懐かしい人々の面影を一瞬のうちによみがえらせてくれるはずである。驚嘆すべきは、廊下から浴場につながる、ほんの一渡り「床」である。私はこの「床」に「法師温泉長壽館」のすべてを見るような気がした。段差のある渡りを、折り曲げた木材でスロープのようにつないでいるのである。研ぎすまされた建築技術と、それを守りつづけようとする従業員の営みに脱帽する他はない。
 さらにたとえば、館内の照明である。蛍光灯は極度に制限され、浴場はもとより玄関、廊下、客室のすべてに白熱灯が使用されている。傷ついた身や心を癒してくれるのは「ぬくもり」以外の何物でもなく、裸電球のおだやかな光が館内を温かく照らし出しているのである。私たちは眩しすぎる明るさに慣れきってしまったが、「日本の家」の明るさは、陽光、月光、篝火、灯火など自然の産物によってもたらされてきたことを忘れてはならないだろう。それは自然の暗闇を前提とした明るさに過ぎないものであり、今となってはむしろ、ここの浴場のような暗さの中にこそ本当の明るさが潜んでいるのではあるまいか。客室にはテレビが備え付けられているが、そこに映し出される様々な情景が玩具の世界のように感じられて興味深い。縁側の籐椅子にもたれて、空ゆく雲を眺め、川の瀬音を聞いている方が飽きないのである。テレビの騒音など川の瀬音に見事にかき消されてしまう。 そういえば、この法師川の流れも重要な役割を果たしている。というより、この法師川こそが法師温泉の母胎なのだということを銘記しなければならない。温泉はこの川の中から湧き出ているのであり、浴場は太古の昔の河床の上に建っているのである。「川の音が気になって眠れなかった」などと言うことは笑止千万である。身も心も傷ついた者にとっては、やさしい母の声にも似た、自然の「子守歌」に聞こえるはずである。
 法師温泉のたたずまいと、「泉質」を磨き上げようとしてなされるありとあらゆる工夫は、それ自体として一つの「文化」を形成している。それは現代の機械文明、消費文化、情報化社会などといった営みとは無縁のように思われる。大自然との対峙を通して培われた「畏れ」によって生み出された創造であり、いたるところに「自然との一体化」「虚飾の排除」といった姿勢がつらぬかれている。とはいえ、単なる「自然への回帰」を志向するのではなく、むしろ逆に、自然の立場から必要最小限の現代文明を取り入れようとする事実が<国宝級>なのである。浴場の壁に取り付けられた「時計」がそのことを象徴的に裏づけている。入湯している者にとって時計は不可欠のものであることを、法師温泉は知っているのである。

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