《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「冥界譚」・《私の死に方》

2011-01-31 00:00:00 | 日記
2008年1月31日(木)晴
 今日で1月は終わる。「死にどころ」を求めての「冬蜂紀行」は、始まったような、まだ始まらないような、なんとも覚束ない足どりである。「死にどころ」とは、「死ぬ場所」に加えて「死に方」「死ぬ時期」も含まれているような気がするが、いずれも、今の私には定かではない。そういえば、私はこれまでに4回「死にかけた」ことがある。1回は、おそらく2歳頃・・・、その経緯は全く記憶がない。2回は5歳、父親が買ってきた、「季節外れの柏餅」を夜中に食べ、激しい食中毒におそわれた。しかし、苦痛の記憶はあまりない。翌日、いつものように遊んでいたが、妙に頭が締め付けられるような感じがする。当時、進駐軍の兵士がかぶっていた帽子(GI帽)を、自分もかぶっているような感じがして、それを楽しむような余裕があった。まだ「頭痛」という感覚を体験したことがなかったためだろう。まもなく、力が抜け、意識が混濁しはじめた。「象牙の牙が生えてます・・・」などと歌ともうわごとともわからぬことを口走ると、叔母の声が聞こえた。「いけない、脳にいっちゃった、もうだめかもしれない」。私はぼんやりと考える。「脳にいく」とは何だろう。祖母の好きな歌「富士の白雪ゃノーエ・・・」と関係があるのだろうか。「三島女郎衆は、ノーエ・・・」か、女郎衆とは何だろう。そこへ往診の医者が駆けつけてきた。とりあえず「リンゲルを打つ」という。周囲の一同は覚悟したように、私の両手、両足を押さえつけた。そのとき、初めて私は「恐ろしい」と思った。症状の苦しさではなく、拘束されることの恐怖感の方が大きかったと思う。必死にもがこうとする私の太ももに、容赦なくリンゲル注射は打たれた。痛かった。殺されると思った。幸か不幸(といえば罰が当たるかも知れない)か、病状は快方に向かい半月程度の療養で、私は全快した。その間、ブドウ糖、重湯、葛湯、リンゴ汁、すり下ろしたリンゴ、粥、おじやという順に「栄養補給」が行われた。それは、死から生への道筋を象徴しているようで、そのどれかを食べたとき、当時を思い出す。リンゲル、ブドウ糖注射の痕跡は今でも、私の腿や腕に残っている。3回は6歳(小学校1年)の夏休み、場所は神奈川・逗子海岸、父親、親類と海水浴を楽しんでいた時のことである。突然、3メートルくらいの大波が打ち寄せてきて、おそらくその場の全員が「呑まれて」しまったのだろう。私は水中でもがいていた。何も見えない。息もできない。ただ、手足をばたつかせていたような気がする。「もうだめだ」と思った。数秒後、私の体は誰かに引っ張られ、気がつくと水中から脱出していた。親類の一人が、泳げない私を救出してくれたのである。まさに「九死に一生を得る」とはこのことだ、と実感した。しかし2回も、3回も幼少時のことであり、「深刻さ」が伴わない。もしあの時死んでいれば、「それはそれ、運が悪かった」とあきらめもつくのではないか。周囲の反応はともかく、当事者(本人・私)にとっての「死」とは、案外そのような感じのものではないだろうか。3回は17歳、病気でも事故でもない。ある夜、私は自殺を試みようとしたのである。しかし、「あと1分後にしよう・・・」「もう1分延ばそう」と思いながら一夜は明けてしまった。そのまま、実にその状態のまま、46年間が経過し、現在に至っているという次第である。なんとも「情けない」「だらしない」話ではないか。そんな気持ちを土台に私は、拙い小説を書き始めた。以下はその冒頭の二章である。

冥界譚

家に帰ろうとして、四つ角にある葬儀会館の立て看板を、何気なく見た。「故 梨野礫儀 通夜告別式 式場」と書いてある。
「何だ、これは!、梨野礫とはオレのことじゃないか!?」
私は、驚いた。自分は、死んだことになっている。しかし、まるで、そのような気がしない。同姓同名の故人が本当にいたのだろうか。
とりあえず、私は家に帰ることにした。
「だが、待てよ。」何か、気分がおかしい。妙に、さわやかなのである。いつもの、耳鳴りや頭痛、肩凝り,動悸、手足のしびれ感などの「不快感」がほとんど感じられないのだ。そればかりではない。無性にタバコを吸いたくなる、あの禁断症状も見事に消失しているではないか。
私の心臓は動いているのだろうか。私は,本当に呼吸をしているのだろうか。
「そうか!、私の心臓は止まっている。呼吸もしていない!?」、だとすれば、私はもう死んでいることになる。昔、ある哲学者が言っていた。「人間は、生きるという行為を『現在進行形』で続けることはできるが、死ぬという行為を続けることはできない。心臓が止まる瞬間を,一回限りで『死ぬ』というのであり、以後は『死んだ』という過去形の表現になってしまう。つまり、『死ぬ』ことは生きることの最後の営みであり、『死』イコール『生』という公式が成立する。」と・・・。彼の論旨は、人間が生きるのは、つねに死を意識しているからであり、死を意識すればするほど充実した生を実現できる、ということであったように思う。
しかし、私の死は、一回限りでは終わらなかった。死んだ後も、私の意識は健在なのである。しかも、すこぶる気分がよい。実に爽快である。
私は、本当に死んだのだろうか。
それを確かめるために、とりあえず、家に帰ることにした。我が家のたたずまいは、いつもと変わりなかった。玄関の鍵はかかっていたが、開ける必要はなく自然に入ることができた。
居間では、妻がコンビニ弁当を食べながら,テレビを見ている。表情は、いつもと変わりなく、何事もなかったような風情であった。
私は「おい、今、帰ったぞ」と声をかけようとした。だが、声が出ない。呼吸をしていないので、当然のことだ。
「なるほど・・・。やっぱり、オレはもう死んでいるんだ」
私は、やっと納得することができた。
「しかし、待てよ・・・。」私が死んだというのに,我が家の様子がいつもと変わりがないということはどういうことなのだろうか。さきほど、見かけた葬儀会館の看板は何だったのだろうか。今、私の葬儀が行われているのではないのか。どうして、妻はテレビなど見ていることができるのだろうか。
私は、家を出て葬儀会館に行ってみることにした。
もう一度、入口に立てかけてある看板をゆっくりと見直してみた。「故 梨野礫儀通夜告別式 式場」、真っ白な布地に、筆太の楷書文字ではっきりと書かれている。
「間違いない!」、私は確信して中に入った。受付は閑散として誰もいなかった。奥の一室から読経の声が聞こえる。「もう始まっているのか」,そう思って式場に向かった。
なるほど、正面に棺が安置され、私の遺影も掲げられている。参列者は、整然と並べられたパイプ椅子にすわり、一様に頭を垂れていた。遺族席には、妻がいる。長男も、長女も、その配偶者、孫たちも並んで座っている。彼らの表情は、いつもと変わりなく、淡々としていた。
かねてから、私は「もしオレが死んだら『故人の遺志により葬儀一切はとりおこないません』と通知して、事務的な始末だけするように」と言い置いてあったのだが、事態はそのようにはならなかったようである。でも、それでは、さきほど自宅で見かけた妻の様子は何だったのだろうか。明らかに、二人の妻がいる。再び確かめるために、自宅に戻ってもよかったが、その結果はわかるような気がした。
「もう、どうでもいいや・・・。」という気持ちになって,私は、しばらく葬儀の経緯を見ることにした。
参列者の中に、知人は一人もいなかった。「なるほど、妻は私の遺言どおりに、誰にも訃報の通知を出さなかったのだ。それでよい!」と、私は思った。だとすれば、この葬儀は、事務的な始末の一部に他ならない。家族が淡々としている様子も、十分に納得できた。 「そうか!」と、私には歓喜にも似た気持ちがあふれ出てきた。「オレは、やっと本当に死ぬことができたのだ!」
私が初めて死にたいと思ったのは、十七歳の時だった。以来四十年あまり,一日として「死にたい」と思わない日はなかった。時には「仕事」に紛れて「死んでたまるか」と思うこともあったが、入眠の時には「このまま、目が覚めないように」と、祈り続けてきたのである。
今,突然,その祈りが叶えられたと思うと、私は幼児のように踊り出したい気持ちになった。「やったぜ、ベイビー(古い言葉だなぁ・・・。でも万歳よりはいいだろう)」と大声で叫びたくなった。しかし、私は、体を動かすことも、声を出すこともできなかった。「死ぬ」ということは、そういうことなのである。
ところで、私はなぜ、この四十年余り「死にたい」と思い続けてきたのだろうか。話せば長くなるので、ここで一息いれてもらいたい。


私は、昭和十九年十月に満州(中国東北地方)で生まれた。日本の敗色が濃くなった戦時下のことで、聞くところによれば、あの神風特攻隊が自爆攻撃を開始した頃だという。当時の記憶は全くないので、すべて後日、縁者からの「またぎき」の話だ。だから、どこまでが本当かはわからない。
母は、第一子の私を出産すると、まもなく病死した。三十九歳での初産がたたったのかもしれない。父も、まもなく入隊し、私は父の友人一家に預けられた。一家には、友人夫婦と三人の息子がいた。三男と私は同年齢だったそうである。
敗戦後、友人一家は、私を連れて「内地」に引き揚げる。その途中で、三男は病死した。
友人一家の悲嘆、苦労はいかばかりであったろうか。その温情は筆舌につくしがたく、感謝の言葉も見あたらない。
とはいえ、私が物心ついたころ、「すべては終わっていた」。
私は母方の祖母に預けられ、新生「日本」の息吹の中で、安穏な日々を過ごすことになった。やがて父も生還し、友人夫婦、息子たちと交流、歓談する機会もあった。そこで語られる大人同士の「思い出話」には、かけがえのない「真実」、そしてまた、消すことのできない「悔恨」が数多く秘められていたに違いない。しかし、子どもだった私には、それらの片鱗さえ感じとることができなかった。今の私には、父の友人夫婦がさびしげに歌っていた「白頭山節」「鴨緑江節」のメロディーがかすかに残っているだけである。
「いや、待てよ。」、覚えている言葉が一つだけあった。『ムガイシャ(無蓋車)』である。屋根のない貨物列車のことであろう。台車の側板があるのはいい方で、ほとんどが木材を運ぶ,棒杭だけが立てられた無蓋車だった。その杭にしがみついてきたからこそ、引き揚げることができたのだという。
当時の大人たちは、過去の事実を「淡々と」叙述するだけで、感情を表に出すことはなかったように感じる。そのためか、私は自分自身の「生死」にかかわることですら、他人事のように聞き流していたと思う。
友人夫婦が私を連れて「内地」に帰還したとき、母方の縁者が出迎えた。栄養失調でやせ細った私の姿を見て、「期待はずれだったっけやあぁー」というのが第一印象だったという。未熟な私には、「期待はずれ」という意味すら理解することができないでいた。
友人夫婦のかけがえのない三男が落命したことの「重大さ」、「無念さ」を思い知ることができたのも、つい最近のことである。
「友人夫婦は、三男を犠牲にして私を守り抜いたのではないか。」
自らの第三子と、他人の第一子、どちらか一人を選ばなければならなくなったとき、どうするか、夫婦の苦渋の選択は想像するに余りある。
「でも、これでよかったのだ・・・」、妻を亡くし、息子も預けて入隊しなければならなかった父、娘の生還を待ちわびている母の縁者たちのこと、そして梨野家の存続を考えれば・・・。夫婦はそう自分に言い聞かせて、三男の冥福を祈ったに違いない。
だとすれば、「お前は生きなければならない、期待はずれでも・・・。」と、人は言うだろう。
わかるだろうか。だから、私は「死にたい」のである。「甘ったれ」「意気地なし」は百も承知で「死にたい」のである。十七歳、思春期特有の「反抗」「憂鬱」「絶望」「倦怠」を今だに引きずっている馬鹿、それが私の姿なのだ。(つづく)

にほんブログ村 シニア日記ブログへ
blogram投票ボタン 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村