《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「箱根駅伝」(早稲田往路優勝)と「大衆演劇」(南條隆とスーパー兄弟)

2011-01-02 00:00:00 | 日記
2008年1月2日(水)晴
 箱根駅伝往路で早稲田が優勝。昨年度総合優勝した順天堂大学は1区でブレーキ、山登りでは途中棄権、連覇の夢は消え去った。テレビを見ながら、昔、綴った以下の雑文を思い出した。

テレビのスポーツ実況番組では,ほとんどのアナウンサーが絶叫している。大昔,NHKのアナウンサーが「前畑,ガンバレ」と絶叫したのが始まりのようだが,それはラジオの実況放送であった。テレビの絶叫では,古館伊知郎のプロレス中継がそのはしりといえようか。いずれにせよ,ワンパターンの絶叫は,アナウンサーの無能力をさらけ出すだけだ。競技場の雰囲気,沿道の様子,情景などは「見ればわかる」のである。最近では,アナウンサーもそれに気づいたと見え,選手の身辺情話を盛り込んで絶叫している。なるほど,身辺情話は見てもわからない。でも,アナウンサーの方々よ,身辺情話を絶叫すると浪花節になってしまうことを御存じか。古館は自分を「現代の語り部」「名司会者」などと勘違いしているようだが,ためしにCDにでも録音して売り出してみるがいい。そして,三門博、広沢菊春,広沢瓢右衛門などの浪曲と聞き比べてみるがいい。
視聴者は,テレビでスポーツを「見たい」のである。加えて,競技場の雰囲気,沿道の様子,情景の音声も「聞きたい」のである。アナウンサーの方々よ,あなたの絶叫が,そのような視聴者の願いを,ことごとく蹴散らかしていることを御存じか。
しかし,情報化社会の現在,このような声が関係者の耳に届いていないはずはない。だとすれば,アナウンサーはそのような声があることを百も承知で絶叫していることになる。マイクを握っているのは視聴者ではない。視聴者がテレビの前で「やかましい,黙っていろ」と絶叫してみたところで,所詮,相手に届くわけではない。視聴者は,やむなく音声を消して,沈黙の画面を見るだけとなる。
問題は,だれがアナウンサーを絶叫させているかということだ。ほとんどのアナウンサーが絶叫しているところを見ると,彼らの独断とは思えない。関係者からの職務命令でもあるのだろうか。
質問しても答はわかっている。「そのような命令は出しておりません」
(2004.1.7)

夕方から「大衆演劇」を観る。劇団は「南條隆とスーパー兄弟」、場所は佐倉湯パラダイス、「大入り」だった。芝居は「浪花の恋の物語」、龍美麗の「お菰」、精一杯の「汚れ役」、セリフ回し、表情は合格だが、身のこなしが惹きつけない。「立ち姿」「歩き方」「走り方」に工夫が必要。「あわれでコミカルな」動きが表れれば合格だが、「もう一歩」という段階であった。「二枚目」南條影虎、「三枚目」龍美麗という配役は結構だが、脇役の実力が不足気味で、せっかくの二人が光らない。肝心の南條隆が不在のためか、全体としての盛り上がりに欠けた。舞踊は、影虎の「長崎ぶらぶら節」が合格、龍美麗の「長良川演歌」が「もう一歩」というできばえであった。宝塚「もどき」の洋舞(群舞)は劇団の目玉として悪くはないが、「華麗さ」だけを追い求めると飽きられる。美麗、影虎はもっと「立ち役」の艶姿を、南條隆から学ぶ必要があるだろう。大衆演劇の「舞踊」は、「歌謡」(曲)のリズム、メロディー、歌詞を「身体表現」するところに真髄があることを銘記するべきである。名古屋・鈴蘭南座で演じた影虎の「俵星玄蕃」「夢千代日記」は秀逸であった。劇場とちがってセンターでの公演は「集中力に欠ける」ことは否めない。客席が「大入り」でなくなったとき、この劇団の真価が発揮されるかも知れない。

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