《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)・《1》

2011-04-03 00:00:00 | 日記
2008年4月3日(木) 晴
 昨日に引き続き、午後6時30分から大衆演劇観劇。「満劇団」(座長・大日向きよみ)。昼の部は「大入り」で、入場できなかった。夜の部も、座長の母・若水照代(70歳)が特別出演とあって「大入り」となったが、肝腎の座長は入院治療のため不在、よく考えれば、娘の「穴埋め」に母がやってきたということになる。30年ぶりに観る若水照代の舞台姿は、相変わらず「明るく元気」、美空ひばり「もどき」の歌声(「関東春雨傘」)にも「衰え」は感じられなかった。「芝居」(外題は失念)は、座長不在のため「水準」並、若水照代の「持ち芸」(三度笠、花笠、番傘の舞踊)で「見せ場」を「やりくり」、「繕った」感は否めない。若手男優・ウメショウジ(漢字不詳)が踊った「花と竜」は、村田英雄ではなく美空ひばり、久々の歌声に聞き惚れたが、舞踊の「実力」はそれに及ばなかったのが残念である。若座長・大日向皐扇の「女形」舞踊は、男優以上に「華麗」で美しい。「立ち役」も「水準」以上だが、劇団を継承していくためには「三枚目」「汚れ役」「敵役」もマスターする必要があるだろう。「新演美座」の深水つかさを「お手本」にすれば大成するだろう。
 「遊民の思想」(森秀人・虎見書房・1968年)を読み始める。今から40年前の作物、著者は評論家、昭和8年生まれなので、執筆当時は35歳、「若さにまかせて書きまくっている」(生活費を稼ぐため?)という感じがした。「あとがき」を読むと、以下の通りに書いてある。「遊び好きの人間はたくさんいるけれども、遊民とよぶべき人間はあまりいない。では、遊民とよぶべき人間は、どんな種類の人間か、と問われたとしたら、返答に困ってしまう。とにかくわたしの心のなかでは、はっきりと区別がついていて、たったそれだけの考えを述べるのに、こんなにたくさんの文章が必要になったわけであった。遊民の思想という〈発想〉は、柳田国男の常民の思想を対極として生み出された。柳田国男はごく普通的人間・・・常民の姿を借りて日本文化の特質を語ったのであるが、幸か不幸か、戦後のドサクサに育った無用者のわたしとその環境は、一所定住の常民たちから切断させてしまっていて、いまさらしかつめらしく〈世間様〉のことを語る資格がないのである。それならばいっそ、と逆上したかたちで書き記した〈遊びについての覚書〉であり、説得力があってもなくても、とにかくここには恥ずかしくてごく内輪にしか語れぬ世間様外の考え方、があることだけは確実であろう。そして、私の愛する歌人在原業平のように“身を用なき者に思いなして、都にはをらじ、住むべきところ求めむ”とはるかなる彼方に私もまた往きたいと思う。しょせん遊民とは〈現代的〉ではないのである」
 「遊民と呼ぶべき人間は、どんな種類の人間か」を、「遊民」自身が書き記そうとした作物であることがわかった。著者・森秀人は、「心のなかで」自分が「遊民」であると感じているようだが、「頭のなかで」は、どう考えているのだろうか。
 「第1章・遊戯」の感想。文化の創造にとって「遊び」は不可欠であり、「反体制」「反権力」を目指した、「本能的」「野性的」「動物的」な「遊び」を追求すべきであるが、「常民」化された「現代」ではむずかしい。ただ、「非知識人」による「大衆芸能」のなかにその可能性が秘められているのではないか、という主張が「心のなかで」感じられた程度、記述の内容、文体が「複雑・難解」で、浅学非才の私には「頭のなか」で十分に理解することができなかった。

「満劇団」・《芝居「親子鷹」と飛鳥一美の面踊り》

2011-04-02 00:00:00 | 日記
2008年4月2日(水) 晴
 午後1時から、大衆演劇観劇。「満劇団」(座長・大日きよみ)太夫元・大日向満の話によれば、関西の劇団だが、座長の大日向きよみは、関東の劇団・虎の座長・林友廣の姉、若水照代の娘だとのこと、若座長・大日向皐扇は、大日向きよみの娘である。さらに舞台には、、長男(「浪花の若旦那」3歳)、次男(「小虎」10ヶ月)、座員(芸名不詳の女優)長女(「浪花の小姫ちゃん」4歳)まで登場、愛嬌をふりまいていた。
 昼の部、芝居の外題は「母の旅路」、母と息子、その嫁の葛藤を描いた人情劇で、役者の「実力」は水準以上と思われるが、際立った特長は感じられない。太夫元・大日向満の「三枚目」が秀逸だったが、やはり「関西風」、しつこさが目立った。歌と踊りのグランドショーでは、飛鳥一美の舞踊「飲んだくれよう(?)」(面踊り)は、途中で拍手が巻き起こるほどの「見事さ」、まさに「至芸」といってよい。座長の歌唱も「堂々」としていて「お見事」、若水照代に勝るとも劣らない「舞台姿」だった。
 夜の部、芝居の外題は「親子鷹」。ある一家の女親分(芸名不詳の女優)が盲目の乳児(小虎)を連れて、大店・大黒屋を訪れる。女親分の次男(堤みちや)が大黒屋に婿入り、生まれた子が盲目だったので、次男の実家に戻された。親分は大黒屋の「跡取り」として育ててもらおうと再交渉に来たのだが、主人(太夫元・大日向満)は拒絶する。そんな「片輪者を我が家に入れるわけにはいかない。養育料ならいくらでも出すから、そちらで育ててください」「そこをなんとか」「いえ、だめです」と押し問答しているところに、一家の姉御・お竜(座長)登場。「あたしが育てましょう、まかせてください」、それから四年後(時代は江戸から明治に変わっていた)、大黒屋には「跡取り」がまだできない。主人は、あのとき「乳児を引き取って育てておけばよかった」と後悔する。そんなとき、四歳に成長した男児(浪花の小姫ちゃん)を連れてお竜が帰京した。主人も次男もお竜に平謝り、「その子を返して」と哀願する。「今さら、そんなことができるもんか」と拒絶してはみたものの、よくよく考えれば、自分が育てるより大黒屋に戻した方が「この子の幸せ」、お竜は男児を説得する。「お母ちゃんの言うことを、よくお聞き、今日からは大黒屋さんの所へ行くんだよ」しかし、男児は応じない。振り切ろうとするお竜の足にしがみつき、「おいらはいやだ、生みの親より育ての親、ずっと、お母ちゃんと暮らすんだ」その健気な様子に、大黒屋主人、次男、女親分から跡目を継いだ長男、そしてお竜も「改心」、再びお竜と男児が「さすらいの旅」に出立するという筋書きである。江戸末期から明治のはじめにかけて、「障害者」(盲目)がどのように扱われたか、何よりも「跡取り」(血筋)が優先されるという「義理」の世界と、「生みの親より育ての親」という「人情」の世界が錯綜していて、たいそう興味深かった。
 座長の話では、この芝居は「劇団に代々受け継がれている」伝統的な演目で、「子役」が主人公、座長自身も、若座長も、乳幼児期に演じたという。だとすれば、この「満劇団」の特徴は「女系家族劇団」ということになるだろう。それかあらぬか、舞台全体に「上品」「可憐」「艶っぽい」雰囲気が漂っている。座長の風情は二代目・水谷八重子「もどき」、舞踊では母・若水照代を超えている。男優陣(飛鳥一美、堤みちや)の「舞踊」も「水準」以上で、すばらしい舞台が期待できそうだ。ラストショー、「お祭りマンボ」の、面踊り(座長のひょっとこ、若座長のおかめ)は秀逸、歌の世界を十二分に「景色化」していた。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ



blogram投票ボタン ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村"">






テレビ東京「ガイアの夜明け」・《中国社会・貧富格差の拡大》

2011-04-01 00:00:00 | 日記
2008年4月1日(火) 晴(強風)
午後9時から、テレビ東京「ガイアの夜明け」視聴。中国社会における貧富格差の実態をレポートした番組である。農村部と都市部では月収の「差」が3倍に拡がったという。たしか、中国は「社会主義国」であったはずだが、どうしてそのようなことが起こるのだろうか。というより、「社会主義」という理念そのものが、空虚な幻想であったのだから、そのような結果になることは「必然」だということが定説化しつつある。中国という「社会主義国家」が崩壊することは「時間の問題」なのだろうか。旧満州で暮らしたことのある、私の亡父は「中国人が、このまま社会主義を受け容れるとは思えない」と言っていたが、今、そのことが「顕在化」したのだろうか。いずれにせよ、政治は「社会主義」、経済は「資本主義」という「現実」、日本の3倍以上の早さで進む「経済成長」が、中国の伝統的な「家族社会」「生活様式」に大きな変化を与え、様々な「ひずみ」を生じさせていることは確かなようだ。しかも、その「変化」「ひずみ」づくりに、日本の「企業」が深く関わっているとすれば、中国の問題イコール日本の問題ということになる。いうまでもなく、今、中国社会が抱えている問題は、日本にとって「いつか来た道」に他ならず、その解決策は「経験済み」といえよう。戦前の「国家主義」「軍国主義」「テロリズム」、「ナショナリズム」、戦後の「核家族化」「公害問題」「交通問題」「少子化問題」等々、をどのように「克服」しつつあるか、その方法を提示することが「日中友好」の第一歩になるのではないか、と思った。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ



blogram投票ボタン ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村"">






TBSテレビ「被取締役(取り締まられ役)社員」

2011-03-31 00:00:00 | 日記
2008年3月31日(月) 雨のち晴
午後9時からTBSテレビ「被取締役(取り締まられ役)新入社員」視聴。採用試験で最も成績の悪かった若者が、意外にも(役員待遇で)「合格」、仕事の内容は「ヘマをすること」「チームに迷惑をかけること」だという。会長のもくろみでは、自分のことばかり考えて連帯しようとしない(お互いに足を引っ張り合っている)「課員」たちの中に「超一流のダメ人間」を入れれば、まず①課員の「自尊心」が満たされる、②「課」の名誉のために「ヘマ」「ミス」を修復しようとする、③その結果、本当のチームワークが生まれるのではないか、ということであった。入社当日から、若者は「ヘマ」を繰り返し、課員たちは「てんやわんや」の有様で、その対応に追われる。事態は、会長の思惑通りに展開、その「ヘマ」が「怪我の功名」になる「おまけ」もあって、「課」の業績は、うなぎ昇りに向上した。「課」(チーム)は、「いじめ撲滅・教育広告」のコンテストに応募、若者の体験をヒントにした「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピーを考案、自信満々で会場に臨んだが、またまた、若者の「ヘマ」で落選、チームの努力は水泡に帰した。若者は耐えられず辞表を出すが、課員のまなざしはどこか温かい。会長の評価によれば、「課」のチームワークは盤石になり、もう心配ないという。そしてつぶやく。「君は超一流のダメ人間だが、そのダメがチームワークを育てたのだから、チームワーク以上の『価値』があるのではないだろうか」あいさつを終えて退社する若者に向かい、「君は我が社にとってまだまだ必要、今度は他の課(名古屋)に行って『もうひと働き』してもらう」と、宣った。困惑する若者、とまどいながら名古屋の社屋に入ろうとする場面でエンディング・・・。
 ドラマの眼目は「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピー、「ダメというところに『価値』がある」という理念であろう。競争社会の勝者は、敗者の存在を前提にしている。敗者がいなければ、勝者は存在できないのだ。つまり勝者にとって、敗者は「必要不可欠」な「価値」をもっていることになる。とはいえ、その「価値」が「かけがえのないもの」として評価されることは稀有である。それゆえ、このドラマもまた稀有な作物として評価されてよい、と私は思った。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ



blogram投票ボタン ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村"">





「小説平家」(花田清輝・講談社・昭和46年)

2011-03-27 00:00:00 | 日記
2008年3月27日(木) 晴
「小説平家」(花田清輝・講談社)のうち「冠者伝」読了。「平家物語」の作者は誰かという謎を「平家物語」の叙述内容・文体に即して解き明かし、さらにその人物の「伝記」を綴ろうとした作物である。この著者の作物は、私自身が学生時代、大いに親しんだものだが、独特の言い回し(文体・決まり文句)の他はほとんど憶えていない。その「言い回し」とは、いわく「まあそんなことはどうでもいいのであって」とか「それかあらぬか」とか「対立したまま統一する」とかいうものであったが、その意味・論脈を理解することは、ほとんどできなかった。還暦を過ぎた今、あらためて読み直しても、当時とあまり変わらない。著者にとって「読者にわかりやすく書く」などということは思いもよらぬことであり、自分の書いたことを読者が理解できないにしても、それはひとえに読者の勉強不足によるものという姿勢が貫かれている。それは「思い上がり」というより「知識人の誇り」として貴重だと私は思う。「冠者伝」の中にも、例によって、決まり文句が多用されていたが、「平家物語」の作者が誰であったのか、浅学非才の私には、いっこうに判然としなかった。まあ、「徒然草」の作者・卜部兼好の「書き誤り」が混乱(謎)の要因になっているらしいことは解ったが、「そんなこと(兼好批判)はどうでもいいのであって」、要するに、著者が「海野小太郎幸長」(信濃前司行長ではない)を作者であると断定した理由、論拠だけを率直に述べ、著者の目論み通り、その「伝記」を綴ればよかったのではないか。しかし、叙述の方向は「あっちこっち」に飛び回り、「話が飛ぶ」たびに、私の頭は混乱する。結局、「平家物語」の作者「海野小太郎幸長」という人物は、どのような立場、どのような思想・信条の人だったのか、彼がどのように生まれ、どのように生き、どのように死んだのか、「わからずじまい」だった。だが、それはひとえに私自身の勉強不足のためであろう。精進して、次の章を読み進めたい。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ



blogram投票ボタン ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村"">