二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


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寂しいことだ。

2014年09月05日 03時45分54秒 | ニ言瓦版
寂しいことだ。
名力士ではないが、力士の将来の引退した後、生活、仕事を見出した人。
そして、多くの力士、有名な力士を知っていた人。
花籠部屋は、人材の宝庫だったのかもしれない。



「先月29日に死去した大相撲元小結でタレントの龍虎(りゅうこ 本名・鈴木忠清=すずき・ただきよ)さん(享年73)の通夜が4日、東京・実相会館・別館たちばなで営まれ、元横綱・北の富士勝昭、西川きよし、ヘレン夫妻ら約700人が訪れた。

西川きよし、龍虎さん通夜で偲ぶ「粋な人でした」

 祭壇は故人がリボンや蝶結びが好きであったことや生前関わりのあった方たちへの感謝の気持ちを表現して、蝶結びの形にデザイン。遺影は、約2年に撮影されたプロフィール写真が使用された。戒名は、四股名から「龍」、勝負の世界の出身のためこれからも「勝」ってほしいということから清淨院釋龍勝居士(せいじょういん・しゃくりゅうしょうこじ)。

 あすの出棺時には妻・貴子さんの手作り弁当を入れるといい「また出かけるので、いってらっしゃいと。おにぎりと里芋の煮っころがしとサンマを」と涙目で明かした。

 龍虎さんは、1957年に初土俵を踏み、小結まで昇進。75年5月に現役を引退した。その後タレントに転向し、TBS系『料理天国』(75年10月~92年9月)では、西川と共演し、名物試食人として人気を博した。先月29日に家族との旅行中に倒れ、静岡県内の病院に搬送されたが、帰らぬ人となった。

 龍虎さんは、過去に心筋梗塞で倒れているが貴子さんは、「2ヶ月に1回、血液検査程度の検診をしていた。大事なときに油断してしまった」と後悔をにじませ、「来世で一緒になれればいい。あの人は嫌がるかもしれないけど」と故人に語りかけた。

 通夜にはそのほか、元横綱・北勝海の八角親方、元プロレスラーの坂口征二氏、現役力士の隠岐の海、佐渡ケ嶽親方、生島ヒロシ、やくみつる、岡田美里らが参列し、故人を偲んだ。」



力士も、俳優、タレントができる、才能があるのかと、思ったことだ。
人は、二毛作。
人生は、仕事も、退職、首になったあと、また、新しく、仕事見つけ出す。
才能・タレントを発揮する。
ご冥福を祈ります。


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生い立ち、経過。

「1957年1月場所、花籠部屋から初土俵(同期に第52代横綱・北の富士がいる)。同年11月場所まで鈴木山の四股名で土俵生活を送り、翌1958年1月から1959年9月まで花武蔵の四股名で土俵に上がった。1959年11月からは「出羽海部屋の武蔵川親方とは系譜上の関係がないから」として若神山を名乗るも、幕下中位から下位で停滞していたことに痺れを切らして1964年11月場所から花武蔵に戻す。1966年5月場所前には師匠の花籠から「漢語由来の四股名を名乗ると出世するよ。双葉山さんや大鵬がいい例だ。」と勧められて龍虎と改名し、以来引退までこの四股名で通す(1969年3月までは下の名前が昇だった)。若乃花には新弟子の頃からかわいがられ、二子山(若乃花)独立の際について行くことを志望しながら師匠花籠が移籍を認めた力士に含まれていなかったために移籍は認められず残留することになった。1967年3月場所新十両。1968年3月場所新入幕。初土俵より11年かけての幕内昇進は当時の最スロー記録であった。

新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げた(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっている)が新三役に昇進できず、翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗したが、その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持していた。ようやく1970年3月場所新三役(小結)。突っ張りを交えた気風のよい相撲振りと美男力士として人気を博し1970年9月場所、前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げた。

しかし、翌1971年11月場所6日目に前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して3場所連続全休で幕下まで落ちた。このケガが1972年1月場所より公傷制度が設けられるきっかけとなったが(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎自身には適用されなかったため、世間の同情を集めた。

しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、1973年7月場所に再入幕する。その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。1975年1月場所で小結となり三役にカムバックした(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。

ところが、1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、その場所限りで現役引退。引退後は年寄放駒を襲名するも1977年に廃業し、タレントに転向した。」


初代の若乃花に、育てられたのかもしれない。
死んだ、昭和の名力士が、彼の世で、待っているのかもしれない。

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