二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


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支離滅裂なドラマ、最後が始まりも、そうなのか。

2016年11月07日 06時05分21秒 | ニ言瓦版
面食らった。
でも、ドラマの内容から見る。
タイトルは、内容の話が優先は、いい。
オープニングの映像が、飽きたのと、楽しくないもある。
最後は、予告編とオープニングがいい。



「NHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)の第44話「築城」が6日放送され、タイトルバックなどが入るオープニング映像が、エンディングで使用された。大河で異例の演出にSNSなどでは驚きの声が広がった。

 真田丸オープニングのタイトルバックは、バイオリン奏者・三浦文彰さんがソロパートを演奏する服部隆之氏作曲のテーマ音楽がかかり、美しい情景で構成された映像と出演者らのテロップが流れる。この日の放送では「真田丸」の題字が映ったあとに、オープニング映像を“飛ばして”有働由美子アナウンサーのナレーションが始まった。

 インターネット上では「真田丸がいつもと違う」「オープニングのテーマ曲が聞きたかったのに、省かれた…」と視聴者がざわつく中、ドラマは進行。そして終盤のクライマックスで徳川勢を迎え撃つための砦(とりで)、六文銭ののぼりが多数掲げられた巨大な真田丸が完成する。高梨内記(中原丈雄)に「城の名はなんとします」と問われた真田幸村(堺雅人)が「決まっているだろう、真田丸よ!」と高らかに宣言した場面で砦の全景から「真田丸」の題字へと切り替わりオープニング映像とテーマ曲が流れた。

 エンディングに持ってきたタイトルバックの間に次回予告を挟むという計算づくしの演出に視聴者は驚嘆。「最後に持ってきたかあ。鳥肌立った」「真田丸が完成し、いよいよ最終編が始まるっていうことなのかな」「カッコ良すぎる」といった声が集まった。」


第44話は、解らない、話だ。
なんで、真田丸を作る過程が、短いことだ。
大阪城の内部の戦いと、浪人の毛嫌いの豊臣一族。
そうなのかと、問われる、もともと、大阪城を知っている家臣が、戻るも、
豊臣一族は、戦は、しないで、生き残ることが可能と、怠慢に思考なのか。

意味不明な話を残る、残らない、
出城を作る作らない、其の省略の話が、意味不明である。

最後は、秀頼の決断は、解らないものだ。
淀君、その側近、そして、浪人たち、そして、真田一族の作戦。
解らないものだ。


本当に、篭城で、勝てると、思うのか、不思議なこと。


難しいことだ。
「オープニング映像が、エンディングで使用された、より、ドラマの内容が、
支離滅裂で、意味不明。
終わりが、オープニングなのかもしれない。
頓珍漢なドラマになっている。

一話事、可決してほしい。

サザエさんの一話みたく、解決してほしい。
ドクターXみたく、一話事、解決してほしい。
なぜ、真田丸という、出城ができたかの過程は、意味不明に見える。
大阪冬の陣、夏の陣、服装は、いつの時期か、解らない。
なんで、豊臣一族が、終わる過程は、意味不明の解釈に見える。

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調べたら、ドラマと違い、調べたのかと、問われる。

「大坂冬の陣[編集]


冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大
豊臣方の準備[編集]
慶長19年10月2日(1614年11月3日)、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[注釈 8]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は違えど、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

「豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。

これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。
後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、」


警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された[注釈 9]。
同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。
幕府軍の出陣[編集]
10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。 そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。 諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍を率いて越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。
11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。」



解らない。

「「豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、
豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。
二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、
徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。

これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。
後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、」

この過程が、44話の話では、意味不明。
内部の権力闘争でなく、作戦の戦いの判断の会議が、
44話のドラマの主である。
いや、一番、このドラマの重要な点である。

「有利な講和を引き出そうという方針」のドラマでない、演技と、内容。
疑問なドラマ。




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