二言瓦版

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面白い、蔦文也氏の話は。

2018年01月11日 04時57分13秒 | ニ言瓦版
サンスポの記事はいい。
いろいろ、昔の話は。

甲子園の話は。




「早実のエースとして5季連続で甲子園に出場した荒木大輔氏(53)が、夏の甲子園大会の歴史を掘り起こす企画。
第4回は徳島・三好市に、池田の故蔦(つた)文也元監督をよく知る人たちを訪ねた。
高校野球のスタイルを変えたといわれる攻撃野球で、
春夏合わせて優勝3度(春2、夏1)、準優勝2度(春夏各1)。高校野球史に大きな足跡を残した“攻めダルマ”とは-。

香川・高松空港から車で約1時間。徳島県立池田高校は、周囲を山に囲まれた三好市池田町にある。同校の野球部長として1973、74、80-85年に蔦さんと“コンビ”を組んで甲子園に5度出場した白川進さん(80)らを訪ねた。

 「大胆そうで小心、小心そうで大胆。酒を飲むと明るいし、飲まないと堅い。野球以外は興味がなく、野球に対する情熱にかけては、これ以上の人はいないでしょう」

 蔦さんがプロ野球の東急(現日本ハム)を1年で退団し、社会科教諭として赴任したのは51年。前野球部OB会長の水田京市さん(83)は、1年生だった。「強くなる前は『野球を教えるのは下手だけど、人柄がいいから蔦さんに預けておけば間違いない』という人もいましたよ」。

 翌52年、正式に監督に就任。県内では母校の徳島商が高い壁で、南四国大会(77年まで実施)に進んでも高知勢が立ちはだかった。蔦監督の酒好きは有名で、水田さんは「勝てない時代に覚えたね」と笑う。

 監督としての甲子園初出場は、71年夏。センバツ初出場の74年春に部員11人で準優勝し、“さわやかイレブン”として一躍注目を集めた。当時の主将で現OB会長の森本秀明さん(61)は「授業中は野球の話が大半。でも、“攻めダルマ”ではなかった」という。

 「一死一塁では、絶対に送りバントだと思って打席に入りました。二死三塁、打席に3番の場面で本盗のサインが出たこともあります。サインは単純で、全部見破られていたと思います。スクイズの時は『見破られてもセーフになるバントをせえ』ですよ」

 こんな一面もあった。「メディアへのサービス精神は旺盛。NHKの取材班から『11人で声を出してランニングを』と注文されると、その通りにやらせる。普段はあまり声を出していないので、そろうわけがない」。白川さんは「隣に座ってスコアブックをつけていると『バントさせるけど、いいか?』と賛同を求められました。気が優しくて決断力が足りないんですよ」と振り返った。

 優勝こそ逃したが、甲子園から帰ると状況は一変。森本さんは主将ならではの苦労を味わった。

 「新入部員が大勢きて34人になり、どうやって練習すればいいのか分かりませんでした。キャッチボールがろくにできない子もいて、普段ならグラウンド2周のランニングを5周させたり、ずっとファウルゾーンで球拾いさせたり…。なかなか退部しないと、監督が私に『うどんを食わせてやめさせろ』と500円を渡すんです。『3年間頑張ります』という子もいて、報告すると『アホか!』と怒られました」

 準優勝を一つの区切りと感じた白川さんは、蔦監督に「一緒にやめませんか?」と提案したが、「何ちゅうことを言うんや」と一蹴された。

 その後は県内各地から池田を目指す生徒が増えた。蔦監督は後援会長に頼んで一軒家を借りて寮代わりにし、食事は地元の人たちが安価で提供してくれた。遠方の選手も帰りの電車の時間を気にすることなく、グラウンド後方にある西山(標高721メートル)の山登り、コーチが考案したロープや古タイヤを使ってのウエートトレーニングなどでパワーをつけた。

 79年の夏に準優勝し、80年に畠山準(元南海など)、81年には水野雄仁(元巨人)が入学。“やまびこ打線”と呼ばれた強打のチームは82年の第64回大会で初優勝を果たし、83年のセンバツも制して夏春連覇を飾った。

 82年の夏は全6試合で2桁安打をマークし、総得点は44。準々決勝で対戦した私は、7回17安打(自責点9)と打ち込まれて完敗した。森本さんは「打って打って打ちまくれのチーム。その頃が蔦監督の理想の野球ではないでしょうか」とうなずいた。

 “小心者”から“攻めダルマ”へと変わり、山あいの県立校、池田を全国の頂点へ導いた蔦文也元監督。就任当初から終始一貫していたのは厳しいノックだった。元野球部長の白川進さんは「ノックができる間は(監督を)やる、と。その通りでしたね」と振り返る。

 蔦監督が赴任した1951年に入学した水田京市さんは「1年だけとはいえ元プロだから、打球が速い。しかもボール1個分、捕れるか捕れないかというコース。7、8人いた同級生の部員のうち、最後まで残ったのは2人でした」。“さわやかイレブン”の主将、森本秀明さんは「監督のノックは、まだ楽でした。捕りにいけますから。OBの中には、三塁を守っているのに右翼へ打つ人もいました」と笑う。

 まだ鉄拳などによる指導が当たり前のように行われていた時代。蔦監督も時には手を出したそうだ。「監督と野球部長は連携していますから『きょうはたるんでいる。やるけんな』で分かりました。手を挙げる相手は、チームに影響力がある子と決めていて、強かった頃は、やっぱり畠山や水野です」と白川さん。水田さんは「たたかれ強くて、落ち込まない子。監督は選手のことをよく見ていました」という。

 蔦監督は就任から40年後の92年3月、「ノックができなくなった」と退任し、教え子の岡田康志コーチに監督を譲った。

 私も蔦監督に率いられたチームの一員になったことがある。第64回大会(82年)の直後に行われた日韓対抗。優勝した池田の9人、4強入りした中京(現中京大中京)の野中徹博(元阪急など)、1回戦でノーヒットノーランを達成した佐賀商の新谷博(元西武など)らとともに、私も代表に選ばれた。

 強烈な徳島弁で「エースは4番を打たなきゃ駄目だ」と言われて、その気になった。先発した試合では、早実でも打ったことがない5番(4番は池田・畠山)。安打を放って期待に応えることができて、安堵(あんど)したことを思い出す。

★池田Vs早実 今は仲間

 荒木氏は自身最後の夏となった1982年の第64回大会準々決勝で池田と対戦。2-14で完敗したが、全力で戦った達成感だけで、悔しさはなかったという。大会直後の日韓対抗では「2週間くらいでしたが、池田の選手とずっと一緒にやってきたような感覚になりました」。

 4、5年前に当時のメンバーと再会したことがきっかけとなり、年に1度、在京の両チームの同級生が集まって旧交を温めている。「育った場所も練習の中身も全く違うのに、早実の仲間と同じ空気を感じます。不思議な雰囲気を持った面々なんです。1学年下の水野(雄仁)も何食わぬ顔で参加していますよ」と毎回楽しみにしている。

★現在の池田高

 かつて生徒は1学年に約300人いたが、現在は170人ほど。野球部の新チームには1、2年生40人が所属している。甲子園出場は2014年のセンバツ(2回戦敗退)が最後。昨年の秋季徳島大会は準々決勝でサヨナラ負けした。竹内圭三校長は「地元の活性化は、野球部なしではありえない。1年生にいい右投手がいるので、今年はなんとか地元の期待に応えてほしい」と語った。」



人は、経験が、人生を変えるのかもしれない。
いろいろ、甲子園で、優勝、敗北。
その後。

面白いことだ。

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