二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

伝手で、いい思うしているが、現実は、無能かもしれない。

2018年08月07日 16時39分31秒 | ニ言瓦版
なんでもあり。
酷い大学だ。
事によると、この大学の先生、医者は、信用できない。



「東京医科大の不正入試問題で、内部調査に当たった弁護士が7日午後、記者会見し、報告書を公表した。一部の受験生に点数を加えるなど、合格者を不正に調整してきたと正式に認定。前理事長の臼井正彦被告(77)=贈賄罪で在宅起訴=と前学長の鈴木衛被告(69)=同=が主導したとし、動機を「同窓生の子弟を入学させ、寄付金を多く集めたいとの思いがあった」と指摘した。2人が受験生の親から個人的に謝礼をもらうこともあったと明記した。

 今年の一般入試で医学部医学科に合格した文部科学省の前局長佐野太被告(59)=受託収賄罪で起訴=の息子も1次試験で10点が加算されていたと認めた。」



考えると、頭のいい医者など、いないのかもしれない。
頭のいい、女医は、いるだろうな。

人は、大学では、判断しないで、女医は、難関、突破した、頭のいい、女性だろう。


バカも、知り合いがいると、合格か。
どこかの市長は、同じようなことしていた。
この世は、伝手で、いい思うしているが現実は、無能かもしれない。
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面白い。再現ドラマの女優か。

2018年08月07日 11時41分38秒 | ニ言瓦版
面白い。
女優でも、そうだろう。
再現ドラマの女優か。




「 普段、私たちがよく目にする再現ドラマ。その“再現ドラマの女王”と呼ばれているのが、芳野友美さんです。再現ドラマに出演するきっかけを聞くうちに、清純派アイドルで歌手デビューしたことが分かり、さらにそのプロデュースが、あの篠原ともえさんだったことも明らかに!聞けば聞くほど“味”が出てくる芳野さんから、いろんな話を聞かせてもらいました。

――今日はオーディション帰りということですが、どんなオーディションだったんですか。

 ある演歌歌手の方のミュージックビデオでした。いつも心がけているのは、楽しむことなんですが、そういう意味では今回は自分の中では合格です。

 オーディションは平均すると月に1回あるかないかですが、勝率でいうとほぼダメですね。

 CMとか広告が多いのですが、商品のイメージとか左右されるじゃないですか。私はさわやかなタイプではないので、清涼飲料水とか絶対ダメですよね(苦笑)。「笑顔が似合わない」って言われるんですけど、自分でも苦手意識を持っているので。

 「過去に何かあったの?」とかよく聞かれるんですけど、ぜんぜんそんなことはなくて。親からも本当に無愛想だと言われていましたし、愛想を振りまくのが苦手なのかな。

――今や“再現ドラマの女王”と言われていますが、ご自身ではどう思っていますか。

 うれしいですが、自覚がないというか、逆に申し訳ない気持ちです。ただ、長く数多くやっているというだけなので、その称号にふさわしい活躍をもっとしなきゃなっていう、お尻をたたいてもらっている感じです。

 再現ドラマに関しては、ほとんどオファーをいただいてやっています。普通のドラマは、プロフィールを出して、入れたり入れなかったり。お芝居ではオーディションを受けることはあまりないです。グラビアなどもやっているのですが、女優の仕事としては、再現7、その他が3くらいの割合。そもそも全体的に仕事が少ないんですよね…。

――芸能界に入ったきっかけは何ですか。

 雑誌「JUNON」の女の子版オーディションです。当時高校生だったんですけど、受けてみてビックリ!かわいい子ばかりだし、「劇団に入ってます」っていう子とか、「特技を披露してください」と言われて「蝶々を捕まえます」ってひたすらいない蝶々を追いかけている子がいたりとか。私は何も特技がなくて、オーディション前に姉に相談したら、当時大人気だった篠原ともえさんのマネをして、「『篠原です。シノラーです』って言っときゃいいじゃん」って言われて。で、やったこともない中途半端なシノラーのモノマネをしたら、その場が凍りついちゃって。

 合否は雑誌発表で投票になるからそこで確認するようにということでしたが、もう結果を気にもしていなくて。そしたら雑誌の発売日に学校で「見たよ」って言われて。しかも、“特技=篠原ともえのモノマネ”と書いてあって、友達にからかわれて。途中経過で30人にしぼられた時に読者投票で1位になって、そしたら13もの事務所からオファーをいただき、何のご縁か、篠原ともえさんの事務所に入ることになったんです。

 高校卒業後に地元の福岡から東京に出て、篠原さんのプロデュースで清純派アイドルで歌手デビューしました。「芳野」が「磯野」に似てるという理由で「芳野わかめ」という芸名です。私は女優になりたかったんですけどね(笑)。

 篠原さんの全国学園祭ツアーにも一緒に行かせてもらって、ちょっとだけ歌わせてもらうとか、「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」(フジテレビ系)にも1回出させていただいて。大きな会場で歌ったら、緊張しすぎて「ヘタクソな歌を必死に歌っててかわいそう」ってなっちゃって、逆にファンを獲得したっていう…(苦笑)。

 そんな中、同年代の松浦亜弥ちゃんとか鈴木亜美ちゃんとかが、1人でちゃんと上手に歌っていて、「私にこの力と器はない、無理だ」と。どれだけ自分が凡人なのかを思い知らされたっていうか。今考えると2、3年のことなんですけど、すごく長く感じたんです。結局、全く売れないまま、一度芸能界を離れて、普通の大学生、一般社会人を経験しました。

――そこからまた芸能界に戻ったのはなぜですか。

 未練がすごかったんです。辞めた直後は大学の友達にも顔がスッキリしたと言われたので、自分の中でも重荷だったのかなと思っていたんですけど…何て言うんでしょう。鏡の中の自分が、もともと輝いているとか思ってないですよ!ないんですけど、どんどん普通になっていくというか、落ちぶれ感をすごく感じて焦った。それと、やっぱり“女優をやりたい”という思いがあったんです。

 そんな思いを抱えながらも、就職活動に入ってみたら、周りは希望を持って保険とか銀行とか会社を絞っていくのに、私にはやりたいことが何もない。そういう時期に、久しぶりに会った友人の役者さんが、「プロダクションをやろうと思っているから、よかったらやってみない?」と誘ってくれて。このタイミングで話が来たということは、まだ私と芸能界は縁があるのかなと思って、戻ることに決めました。

 仕送りをしてもらっていた両親からは「懲りたでしょ」と言われたんですが、「これからは自分でアルバイトをしてなんとかするから」と許してもらいました。でも、そこからが苦労の連続でした…。

――その苦労の連続を聞かせてもらっていいですか。

 最初は女社長のところに入ったんですけど、それなりに頑張ったつもりですが、結局はその社長さんが辞めちゃって。その後、ちょっとたらい回しになり、カラーが全く違うところとか、3回変わって。で、結果、今の事務所には、演技のワークショップで一緒だった人に紹介してもらって、たどり着きました。

 面接の時は、「うちの事務所はこんな感じです」と説明され、「入るか入らないか1週間以内に電話ください。うちは来るもの拒まず、去る者追わずなんで」って言われて。その2ヵ月くらい前はフリーでやっていたんですけど、全く仕事がなかったのでお世話になろうと。小さい事務所なので、今もテレビ局に自分で自分のプロフィールを持って営業に回ったりしていますが、私にとってはとってもいい事務所で、もう10年になります。

――再現ドラマとの出合いはいつですか。

 今の事務所に入ってからなので、2007年ごろです。当時、事務所の先輩が「こたえてちょーだい!」(フジテレビ系)に出ていて、社長に「再現をやりたいなら営業するけど」って言われたんです。実は今の事務所に入る前は、正直、再現って嫌だったんです。安っぽいっていうか、王道で女優をやりたいみたいな偏見を持っていたんですよね。でも、事務所の先輩がやっているのを見て、お芝居もうまいし、ちゃんとプロで。今まで女優としての仕事が全くないわけだから、仕事を選んでいる場合じゃない、とりあえずやるだけやって、自分で判断しようって気持ちになって「ぜひやらせてもらいたい」と言いました。

 いざ現場に行ったら、すごいツワモノの方がいっぱいいて。お芝居に慣れていて切り替えも早いし、スタッフさんもそうですけど、みんな時間のない中、テキパキしているし、手を抜いていない。ついていけないぐらいの目まぐるしい現場なのに、すごく優しく教えてくださったし、現場の居心地のよさもあって、楽しいし勉強になるなって。

 1日にメインで何人も演じたり、時にはエキストラもやるんですけど、衣装も自前だから、スタイリスト、ヘアもメイクも小道具までもそのたびに自分で役によって変えなくちゃいけない。ため撮りなんですけど、小道具と衣装、髪型のつながりの管理も自分だし、余裕があればAD業務までお手伝い。本当に1人何役もこなすんです。

 大変なのは、セレブ妻の役の時とかですね。高い服なんか持ってないから、高そうに見える服を選ぶ。だからコーディネート力も必要ですね。

 台本も当日に渡されることが多くて、コピーしたてのあったかい台本をもらって、ロケ車の移動中にみんなで読んで覚えて。私が出ていたのは「わかってちょーだい!」(フジテレビ系)という番組だったんですけど、そこでかなり鍛えてもらいました。

――再現ドラマならではの難しさってありますか。

 台本をもらってすぐ現場で演じなきゃいけないから、一番必要なのは瞬発力。実在するご本人がいるので、すぐにイメージして。「行列のできる法律相談所」(日本テレビ系)の場合は、スタジオでご本人が見ていたりするので、あまりにもかけ離れたキャラクターになってしまって、その方が不快にならないようにということは注意しています。あとは、演出とか編集でそれらしく作っていただけるから、うまくは近寄れるとは思うんですよね。

――1日に何役もやって、ズバリ!ギャラはどのくらいなんですか。

 アハハハ。月3万から5万円ですね。うーん、低いですか?でも、もともと、それでやってきているからそんなに周りに驚かれるものではないと思っていたんですけど…やっぱりびっくりされますね。

 でも、私はいただいている方だと思いますよ。再現の仕事は月2、3回なので。番組にもよるんですが、再現というのは、視聴者の方の混乱を避けるために、毎週は出してもらえないんです。再現の一番の目的って、その役者さんの演技を見せることじゃなくて、情報を分かりやすく伝えること。たとえば私がある時、姑をいじめているすごい嫌な嫁を演じていて、次の週には優しい子供思いのお母さんを演じたりすると、視聴者は混乱しちゃいますよね。だから同じ人がちょくちょく出るのはよくないとされていて、1回、役を忘れてもらう期間が必要なんです。

――そうなってくると、生活費はどうしているんですか。

 アルバイトをして生活しています。仕事がない日はほぼ毎日、建設会社で請求書を出すなどの経理事務をやっています。もちろん一番の目標は、アルバイトを辞めて女優で食べていけることですよ。というのも、アルバイトで生活している以上、自分を“女優”とは言えないと思います。だから“女優”って堂々と言えるようになりたい。 1回、電車で男子高校生が「再現に出てる人だ」って言っているのが耳に入ってきたんですけど、それで終わったんですよね。声をかける価値もないんだなって思いました。たしかに、私だって再現に出ている人に声をかけないし、サインくださいとはならない。でも、それが刺激になりました。

 お金持ちにならなくていいから、芸能の仕事だけでコンスタントに20万円くらいは稼ぎたいです。食事に行くのにも友達に気を遣われるんです。「きょうはこれぐらいかかっちゃうんだよね。大丈夫?」とか。申し訳ないので一緒に出かけられなくなりました。

 両親はここまで来ると、逆に応援してくれていて。グラビアは大反対なんですけどね。お金の面も分かっているから、「大丈夫か?困ったらちゃんと言いなさいよ」と声をかけてくれます。だからって甘えたくはないですけど。

――結婚は考えていないんですか。

 それが私、結婚願望が薄いんです。38歳になっちゃったから、「子供を産みたい」って焦るとかはないんです。仕事に情熱を注ぎすぎて、他に興味が持てないというか。

 よくみんなに生活が厳しいんだから、お金持ちと結婚してから好きなようにやればいいのにと言われるんですけど、基本的にダメ人間なんで、養われるとぐうたら生活しちゃって、女優も趣味程度になっちゃう気がするんです。あとはやっぱり、どこかで自立したいという思いが強い。だから結婚するにしても、自分でお金を生み出せる状況じゃないと嫌なんです。そう考えると…今は無理ですよね。アハハハ。

――この先考える最高の自分を教えてください。

 女優として上り詰めることですけど、ただ、もうこの年になると“夢”じゃなくて“目標”じゃないですか。だから主役になりたいとかではなく、名脇役、バイプレイヤーとして。お芝居って意外と中身が出るというか、見破られるから、味とか雰囲気とか、そういう存在感のある、視聴者の皆さんに「なんかこの人がいると落ち着く」とか言われる女優になりたいです。主役ですか? 私には無理です。アハハハ。」



面白い。
いろいろ女優がいる。

今に、本当の脚本のドラマが、できる女優になるだろう。


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いい話だ。

2018年08月07日 11時22分11秒 | ニ言瓦版
この記事、いい。
継承する。
朝ドラ思い出す。
また、見たくなった。
あの朝ドラ。


「久慈市侍浜町の久慈地下水族科学館もぐらんぴあの職員坂本梓沙(あずさ)さん(28)は5日の「北限の海女フェスティバル」(実行委主催)で初めて素潜りを実演した。会場となった小袖漁港の地元出身で、海女として活躍した祖母を持つ。観光向けの活動だけでなくウニ漁参加も目指し、技術向上と伝統継承に励んでいく。
 同日は大雨に見舞われ、波も大きくうねる中、海女姿で潜った。15分間ほど海中で悪戦苦闘後、かごいっぱいのウニを陸上で披露すると、集まった観客から大きな歓声が上がった。
 坂本さんは「泳ぎづらくて大変だった。ベテランとの力の差を感じた」と振り返った。
 久慈東高、盛岡市の専門学校で学び、卒業後は宮古市で働いていたが、結婚を機にUターン。同科学館が震災から復活し、営業を再開した2016年に職員となった。10年前に亡くなった祖母の大久保トミ子さんは素潜りの名手。「海女をやってみてはどうか」と上司の勧めで志す運びになり、フェス本番に向け種市高プールで練習を積んだ。」


あのドラマで、
ウニをとる、場面は、思い出すことだ。


https://www.youtube.com/watch?v=QwG5rlZD_c4
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考えると、また、今週。カープか、シュートか、直球か

2018年08月07日 11時06分12秒 | ニ言瓦版
 また、今週は、台風か。
また、行政が、問われる。
正しい公共投資しているのか。
避難は、正しくするか、怠慢で逃げない、県民、都民かでるか。


「強い台風13号は7日午前、小笠原諸島の北方海上を北上した。8日に伊豆諸島に接近し、9日にかけて関東に接近または上陸すると予想される。気象庁は大雨や暴風、高波に厳重に警戒するよう呼び掛けた。13号は10日には三陸沖へ進む可能性が高い。
 関東甲信には前線が停滞しており、台風の周辺の暖かく湿った空気が流れ込んで、7日昼すぎから激しい雨が降る所がある見込み。9日にかけて総雨量が増えるとみられ、土砂災害や河川の増水・氾濫、低地の浸水が起きる恐れがある。
 13号は7日午前9時、小笠原諸島・父島の北北東約430キロの海上を時速20キロで北北西へ進んだ。中心気圧は970ヘクトパスカル、最大風速は35メートル、最大瞬間風速は50メートル。半径100キロ以内が風速25メートル以上の暴風域、東側560キロ以内と西側390キロ以内が風速15メートル以上の強風域。
 8日午前6時までの24時間予想雨量は、関東甲信と東北の多い所で80ミリ。その後、9日午前6時までの24時間予想雨量は多い所で、関東200~300ミリ、東北150~200ミリ、伊豆諸島と甲信100~200ミリ。
 8日にかけての最大瞬間風速は伊豆諸島45メートル、関東35メートル。波の高さは関東10メートル、伊豆諸島と東北8メートル、東海7メートルと予想される。」



何十年後は、巨大台風の時代がくるというが、もう、現実には、今年は、台風と、洪水で、
梅雨戦線で、洪水の日本列島かもしれない。

地震、津波で避難場所、と、洪水の時の避難場所。
問われる。

学校に寄宿舎を作る時代かもしれない。
避難場所と、学校で生活できる宿が必要かもしれない。

台風は、カープするか、シュートするか。それか、直球で進むか。
この週末だ。

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問われるは、また、災難、行政だろう。

2018年08月07日 10時46分14秒 | ニ言瓦版
西日本新聞社の記事は、そうだろう。
だが、不思議だ。
70年過ぎても、変わらない、広島は、また、災難。
四年前も、変わらない。





「長崎原爆の爆心地に近い長崎市立城山小に戦後、設置された「原爆学級」。被爆児童と非被爆児童とで成長に変化があるかを調べたとされる混成学級で、卒業生7人による記念文集が昨年末、完成した。胎内被爆者の中野陽子さん(72)=福岡県福津市=も手記を寄せた一人。「私の願い…」と題した文章には、米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)から研究対象にされた怒りや悲しみ、平和への思いが記されている。


 中野さんは原爆投下から半年後の1946年2月生まれ。母は爆心地から約3キロ地点で被爆し、父を捜すため翌日、中野さんを身ごもった体で爆心地近くを歩き回ったという。被爆当時の話は父から1度聞いただけ。母は娘を心配させたくなかったのか、2000年に亡くなるまで一切語らなかった。城山小に原爆学級が設置されたのは、中野さんが入学した1952年度からの6年間だった。
自分たちの置かれた状況、気付いたのは15年前
 〈被爆した児童20人と被爆していない児童20人で編成されて学力や身体能力の差、生活態度を比べるために作られた学級でした〉

 卒業までクラス替えはなし。当時は状況を理解できず「楽しい6年間だった」と振り返るが、定期的にABCCに連れて行かれ、検査後もらったクッキーやチョコレートを持ち帰ると母はごみ箱に捨てたという。

 〈今思えば母はABCCの目的を薄々気付いていたのではないか〉

 自分たちの置かれた状況に気付いたのは今から15年前。テレビ局の取材で、自分が原爆の影響を調べるための研究対象だったことを知らされた。

 〈「人間モルモット」にされていたことを知り、初めて情けなさと強い怒りを覚えました〉

 検査で集めたデータは、「未来のために役立ててほしい」と願う。手記の最後はこう結ばれている。

 〈核兵器のない、戦争やテロが起こらない世界を目指して…。世界唯一の被爆国として日本がリーダーシップを取ってほしい〉

 文集には学級設置時の校長の言葉も収録。「知能も体力も予想通り被爆児は普通児より劣っている」と書かれており、中野さんは当時の学校側の認識を知ってショックを受けたという。

 12日には福津市立図書館で原爆学級をテーマに来場者と懇談する。「被爆者には当時の話を今もできない人がいる。亡くなった人の無念の思いを伝えたい」。自らの経験をありのままに話すつもりだ。」




原爆のことは、そうだろう。対策は、戦争しないのでなく、
放射能の研究だろう。
浄化する研究。


洪水対策も、広島は、問われる。

普通な県には、見えない、行政。
平和宣言は、いいが、広島は、問われる。

正しい行政が問われる。
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