二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

この時期、何を考えているのか、遺体発見できたのか。

2014年04月27日 14時11分02秒 | ニ言瓦版
首相の辞意、辞任より、大統領の辞任のが、必要。
それは、できないのだろう。
あの酷い大統領だと、反日と中国よりでは。
中国に助けを求めることだろう。





「韓国の旅客船沈没事故を巡り、チョン・ホンウォン首相は27日、事故後の対応に不手際があったことを認め、責任を取って辞任する意向を表明しました。

これはチョン・ホンウォン首相が27日午前、ソウルで緊急の記者会見を開いて明らかにしたものです。
今回の事故で韓国政府は、船に乗っていた人や救助された人の数を誤って集計するミスを繰り返したほか、捜索活動の状況についての説明が二転三転するなどしたため、国民から批判が高まっていました。
これについてチョン首相は、会見で「初動から収拾の過程まで問題を適切に処理できなかったことについて、政府を代表し国民に謝罪します」と述べました。
そのうえで「一日も早く収拾するための対策を講じることが責任の取り方だと考えていたが、これ以上、私の存在が国政運営の負担になってはならないと考え、辞任を決意した」として、首相を辞任する意向を表明しました。
事故のあと支持率が大きく落ち込んでいるパク・クネ大統領としては、チョン首相の辞任を認めざるをえないものとみられ、今後の国政運営にとって大きな打撃となりそうです。
一方、沈没事故は発生から27日で11日となり、これまでに187人の死亡が確認され、まだ115人の安否が分かっていません。
現場海域では捜索活動が続けられていますが、天候が悪化しているうえ潮の流れが早いことなどから、26日未明以降、新たに見つかった人はおらず、捜索活動は難航しています。」



115人も解らないも、疑問なこと。首相より、日本、アメリカの支援を断ったのは、
大統領だろう。


面白いのは、国連も、普通は、人道の意味で、言葉があるのが、韓国の事務総長では、
他人事のように、無視している。

結局、災難というより、修学旅行が、問題なのかもしれない。

また、日本の責任になるのではないか、
日本の中古の船が、問題なのだということか、いうのかもしれない。

民主化のない、国なのかもしれない。
本当に、韓国は、必要なのか、北朝鮮と、戦争しても、自由の国ではない気がする。
この事故と、経過見ていると、日本の東日本大震災の当時の責任の党と、似ている。
どこが違うかは、視察することが、得意と、責任は、他人の押しすける、後回しする。
肝心の遺体は、いまだ、できない。
10日で、船の引き上げのクレーンは、待機しているのが、不思議なこと。

すべては、最悪の結果でも、他人のことというのが韓国の政府なのかもしれない。
怖い国だ、韓国で、事件、事故があると、他人事で、済ますことかもしれない。
遺体の発見、陳謝も供養もできないのに、辞職もないだろう。
普通の常識ではない、国なのかもしれない。

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この時期、何を考えているのか、遺体発見できたのか。

2014年04月27日 14時11分02秒 | ニ言瓦版
首相の辞意、辞任より、大統領の辞任のが、必要。
それは、できないのだろう。
あの酷い大統領だと、反日と中国よりでは。
中国に助けを求めることだろう。





「韓国の旅客船沈没事故を巡り、チョン・ホンウォン首相は27日、事故後の対応に不手際があったことを認め、責任を取って辞任する意向を表明しました。

これはチョン・ホンウォン首相が27日午前、ソウルで緊急の記者会見を開いて明らかにしたものです。
今回の事故で韓国政府は、船に乗っていた人や救助された人の数を誤って集計するミスを繰り返したほか、捜索活動の状況についての説明が二転三転するなどしたため、国民から批判が高まっていました。
これについてチョン首相は、会見で「初動から収拾の過程まで問題を適切に処理できなかったことについて、政府を代表し国民に謝罪します」と述べました。
そのうえで「一日も早く収拾するための対策を講じることが責任の取り方だと考えていたが、これ以上、私の存在が国政運営の負担になってはならないと考え、辞任を決意した」として、首相を辞任する意向を表明しました。
事故のあと支持率が大きく落ち込んでいるパク・クネ大統領としては、チョン首相の辞任を認めざるをえないものとみられ、今後の国政運営にとって大きな打撃となりそうです。
一方、沈没事故は発生から27日で11日となり、これまでに187人の死亡が確認され、まだ115人の安否が分かっていません。
現場海域では捜索活動が続けられていますが、天候が悪化しているうえ潮の流れが早いことなどから、26日未明以降、新たに見つかった人はおらず、捜索活動は難航しています。」



115人も解らないも、疑問なこと。首相より、日本、アメリカの支援を断ったのは、
大統領だろう。


面白いのは、国連も、普通は、人道の意味で、言葉があるのが、韓国の事務総長では、
他人事のように、無視している。

結局、災難というより、修学旅行が、問題なのかもしれない。

また、日本の責任になるのではないか、
日本の中古の船が、問題なのだということか、いうのかもしれない。

民主化のない、国なのかもしれない。
本当に、韓国は、必要なのか、北朝鮮と、戦争しても、自由の国ではない気がする。
この事故と、経過見ていると、日本の東日本大震災の当時の責任の党と、似ている。
どこが違うかは、視察することが、得意と、責任は、他人の押しすける、後回しする。
肝心の遺体は、いまだ、できない。
10日で、船の引き上げのクレーンは、待機しているのが、不思議なこと。

すべては、最悪の結果でも、他人のことというのが韓国の政府なのかもしれない。
怖い国だ、韓国で、事件、事故があると、他人事で、済ますことかもしれない。
遺体の発見、陳謝も供養もできないのに、辞職もないだろう。
普通の常識ではない、国なのかもしれない。

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疑問

2014年04月27日 04時15分51秒 | ニ言瓦版
最近、朝ドラなど、見ない。

偶然、昼の再放送をみてしまい。
何か、ふけた女優ばかり。
きらびやかな衣装と、貧しい家の衣装が、
ちぐはぐで、貧しい家の衣装のが、高価に見える。
何か、主役が、何か、違う気がする。



「花子とアン

「本科に進級した春、はな(吉高由里子)は、運命的な出会いをする。20代半ばの女性が突然編入してきたのだ。
その女性、葉山蓮子(仲間由紀恵)の美しさと優雅な物腰に、校内は噂で持ちきりとなる。
蓮子ははなに荷物を運ばせるなど高飛車に振る舞い、授業では富山(ともさかりえ)を
「あなたは恋愛経験が乏しい」と挑発し、激怒させる。
ところが茂木(浅田美代子)はなぜか蓮子に気を遣っている様子で、
ブラックバーン校長(トーディ・クラーク)もはなを蓮子の世話係に任ずる。ある夜、はなが蓮子の個室を訪れると、
蓮子は自分が飲んでいた飲物を「葡萄で作った薬だ」とはなに勧める。
信じて飲んでしまったはなは、なぜか気分が良くなってしまい、
校内を大声で歌いながら踊って回る。何事かと集まった生徒や教師たちの前で、
しまいには眠り込んでしまうはな。
彼女が飲んだのは葡萄酒だったのだ。校長たちに事情を問われた蓮子は「はなさんが勝手に飲んだ」と言い放ち、
はなは愕然とする。
前代未聞の不祥事に、はなは処分保留のまま謹慎となる。
そんな折り、蓮子の兄・葉山晶貴伯爵(飯田基祐)が女学校を訪れる。
蓮子が女学校に編入したのには、ある深い事情があった…」」



はな(吉高由里子)の衣装が、善く見えるが、何か、疑問もある。
校内の衣装は、あんなに、きらびやかなのかと、疑問。
まるで、大学の卒業式、いや、もつと、酷いかもしれない。
明治と、江戸の使えでも、着物の柄は、あんなに、酷いのか。
昭和大正の着物とは、あんな酷いのかと、いいたい。


演技も、衣装の異常で、浮いている。
食堂の場面など、酷い場面。

でも、疑問なのは、配役。
童顔の女優は、老いて、年齢に見えない。
若いタレントでも、老けてると、生徒には、見えない。先生にも。

配役が無理がある。
主役も、若くない、葉山蓮子も若くないが、主役より、若く見えるのは、葉山蓮子(仲間由紀恵)が、綺麗過ぎ、若すぎるように、
見える。主役が、ふけている。
光のない、姿は、しらけていく。


この原作は、ドラマになるのかと、疑問でもある。
調べてみると、兄弟を犠牲して、いく姿ではないか。
何か、昭和、大正のドラマでも、疑問になる。
赤毛のアンの原作も、訳しただけのこと。

赤毛のアンの原作のような、生い立ちの架空のドラマが理想かもしれない。
アボンリーへの道とか、赤毛のアンとか。
日本では、無理なのかもしれない。

アボンリーへの道のように、できないのか、知らないのかもしれない。
まあ、見る予定は、なく、昼は、「いいとも」が消えたから、昼は、仕事は、食事する時間である。
セーラのような、綺麗で、品格のある、若い、20才前の女優。
学校も、AKBくらいの若い生徒と、そして、ふけた顔の教師。
アボンリーへの道でいうと、あの先生、叔母のような人の女優が、いるだろう。

また、アボンリーへの道の、ビデオ見たくなった。

https://www.youtube.com/watch?v=pxSfL8aQVfM
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疑問

2014年04月27日 04時04分43秒 | ニ言瓦版
アボンリーへの道のように、できないのか、
朝ドラ。


「アボンリーへの道(アボンリーへのみち、Road to Avonlea)は、カナダのテレビドラマ作品。サリバン・フィルムズ(現サリバン・エンターテインメント)が製作し、1990年から1996年にかけてカナダ放送協会で放送された。日本(NHK放送)を含め全世界140か国以上で放送され、カナダで製作されたテレビドラマとしては最大のヒット作となっている。

全91話(カナダでの本放送時は1年に1クール・13話ずつ放送)の他、スペシャル版1話(日本未放送)。


L・M・モンゴメリの作品「ストーリー・ガール」とその続編「黄金の道」(日本語版・篠崎書林刊)をベースに、彼女の代表作「赤毛のアン」シリーズを含む複数の作品から人物やエピソードを交えて構成されている。

20世紀初頭のプリンスエドワード島で繰り広げられるユーモラスでいて時に感動せずにはいられない物語を、美しい四季の風景をバックに描写。その光景は主演のサラ・ポーリーを始めとする実力派俳優たちの演技と共に多くの視聴者を惹き付け、高く評価されている。

ストーリー[編集]

モントリオールに住む社長令嬢、セーラ・スタンリーは何不自由無く育って来た。ところが、父・ブレアが横領容疑で逮捕されてしまいプリンスエドワード島の田舎町・アボンリーにある亡き母の実家・キング家へ預けられることになる。

キング家でセーラを迎えたのは、町にただ一つの学校で教師をしている頑固者の伯母・ヘティだった。セーラはヘティの頑固さに、ヘティはセーラの世間知らずな所に反発し合うが次第に打ち解けて、実の親子以上に固い信頼で結ばれるようになって行く。」


セーラの成長のようなドラマが、できないのか。


https://www.youtube.com/watch?v=pxSfL8aQVfM


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2014年04月27日 04時00分48秒 | ニ言瓦版
赤毛のアンの原作者。
凄い、生い立ちと、だから、作品ができる。


「ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日[1]に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイギリス系の祖先を持つ[2]。父方の祖父は、上院議員[2]。

モンゴメリが生後21ヶ月(一歳9ヶ月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った[2]。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた[2][3]。

1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった[2]。

1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。

島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ[2]。1901年と1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として[3]勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた[3]長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。

モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた[4]。1911年に最も親しかった従妹のフレッドを病気で失くす[3]。この喪失感は生涯続いた[2]。1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した[5]。

1935年にフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年にトロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが[6]、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーによると、うつ病による自殺。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。

モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンスエドワードアイランド大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしている。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著した。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行された。1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版した。」



朝ドラも、この作家の生き様が入っているのだろうか。
アンとか書いているから、勘違いする。
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