二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

疑問。

2014年04月14日 13時48分44秒 | ニ言瓦版
報知新聞の記事は、明確でわかりやすい。
辛いだろうな。処分、死刑するような、11万の鳥。


「熊本県は13日、同県多良木町の養鶏場で鶏が大量死し、鳥インフルエンザの簡易検査で6羽が陽性となり、うち2羽の遺伝子検査で高病原性鳥インフルエンザウイルスH5型が検出されたと発表した。県はこの養鶏場と、経営者が同じ養鶏場(同県相良村)で、計約11万2000羽の殺処分を開始、14日未明までに相良村での殺処分を終えた。多良木町での作業も14日中に終える。

 農林水産省によると、国内の養鶏場での発生確認は2011年3月の千葉市以来3年ぶり。今回の養鶏場では13日午前7時までに約1100羽が死んだ。県は両養鶏場から半径3キロ以内の計4万3000羽の鶏と卵の移動を制限し、半径3~10キロの計約39万8000羽と卵は外部への搬出を制限した。

 殺処分は県職員や農協関係者ら約400人で、14日午前8時までに8万2000羽を処分した。死骸は16日までに養鶏場の敷地内に埋める。陸上自衛隊第8師団(熊本市)は14日未明、県の災害派遣要請を受け、約200人を両養鶏場に派遣した。

 13日に首相官邸で開かれた関係閣僚会議で、安倍晋三首相は菅義偉官房長官を通じ〈1〉現場の情報収集〈2〉関係各省の緊密な連携と徹底した防疫措置〈3〉国民への正確な情報伝達―を指示。林芳正農相は「初動が大事。関係各省庁、熊本県と緊密に連携したい」と述べた。

 県によると、簡易検査で死んだ5羽と生きている1羽の陽性を確認。農水省によると、H5型が検出された鶏の検体は県から動物衛生研究所(茨城県つくば市)に14日までに送られ、同研究所は遺伝子型などの調査を始めた。農水省や県は鶏が大量死したことなどから高病原性と判断した。

 農水省の有識者会合で小委員長の伊藤寿啓鳥取大教授は記者団に「(農場から)比較的早く報告があり、二次的感染が広がる事態はそれほど心配していない」と述べた。

 県は13日、養鶏場に続く主要道路などで、出入りする車両の消毒を開始。蒲島郁夫知事は県の対策会議で、1000人態勢で感染拡大の防止に当たると明らかにした。両養鶏場から3キロ以内の養鶏場2か所に異常はなかった。」


段取りが、いいのか、疑問は、
農水省の問題に見える。
本当に、なんで、処分しなければ、ならなかったか。

「国内の養鶏場での発生確認は2011年3月の千葉市以来3年ぶり」から、官僚は、公務員は、対策してなかったのではないか。
予算は、自分たちの、天下りと、復興の名目の予算で、使っていたのではないか。


「13日に首相官邸で開かれた関係閣僚会議で、安倍晋三首相」いなかったではないか、誰が、指示して、会議して、行うのか。
疑問、海外でも行っているならば、理解する。
疑問なこと。


結局、鎮静化というのでなく、まだ、始まったばかり、
高速道路の浄化か、各道路の車の浄化が、13日には、いているのだろうが、遅い指示ではないか。
九州には、行かないことが、一番の対策。
他県、本州、関西に感染したら、それも、問題。
五月の連休が問題に見える。

でも、不景気と増税で、燃料の高騰で、高速道路の閑古鳥かもしれない。
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本当か、

2014年04月14日 12時42分16秒 | ニ言瓦版
深刻だ。
担当大臣は、現地にいったのか。
総理大臣は、何をしていたか。
ゴルフして、指示したという。
昨日。
おかしい。



「熊本県内の養鶏場で、国内では3年ぶりとなる鳥インフルエンザの発生が確認された。3年前に宮崎県内で発生した際には、最終的に県内の13農場に被害が広がり約102万羽が殺処分された。南九州は全国有数の「養鶏王国」。関係者は被害を最小限に食い止めようと夜を徹して殺処分と消毒活動を続け、周辺の自治体や同業者らも警戒を強めている。

 鳥インフルエンザが発生した多良木町の養鶏場と、発生は確認されていないものの経営者が同じ同県相良村の養鶏場では13日から14日にかけて、県職員らが夜通しで鶏計11万2000羽の殺処分を続けた。
14日には県の災害派遣要請を受けた陸上自衛隊第8師団(熊本市)も現地入り。両養鶏場に続く主要道路などでは出入りする車両などの消毒も24時間体制で続けられるなど、県南部の山あいの集落はものものしい雰囲気に包まれている。

 多良木町の養鶏場では鳥のさえずりが響く中、白い防護服にマスク姿の県職員らが規制線の前で警戒。作業に従事した職員によると、順次ガスで殺処分した後に大きな袋に入れ、重機で掘った穴に埋められたという。「感染拡大を防ぐために早く殺さないといけないとはいえ抵抗がある」。関係者が力なく語った。

 相良村の養鶏場でも同様に防疫服姿の県職員らが鶏を入れた透明のポリ袋を運び出して「液化炭酸ガス」と書かれたボンベから白い気体を袋の中に噴霧した。鶏舎の隣ではショベルカー2台が鶏を埋めるための穴(幅4メートル、長さ80メートル、深さ4メートル)を掘っていた。

 県内では養鶏・採卵農家計234戸が約714万羽(13日現在)を飼育している。発生が確認された直後の13日、熊本県庁であった防疫対策本部会議では、本部長でもある蒲島郁夫知事が「封じ込めに総力を挙げてほしい」と強い口調で指示を出した。知事は会議後の記者会見で「今回のことで鶏肉や卵を食べなくなれば農家が苦しむ。鶏肉などを食べて農家を側面から助けてもらえればうれしい」と風評被害防止を呼びかけた。」




県は、正しい県知事で、指示するが、
問題は、国かもしれない。
民主党の政権、森内閣と、似ているように、思う。
ゴロフ場で、指示は、疑問でならない。
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四月12日。


【午前】8時21分、昭恵夫人と共に東京・内藤町の新宿御苑。22分、高綱直良警視総監ら警視庁幹部、地元の後援会関係者らと写真撮影。9時、首相主催の「桜を見る会」。ソチ冬季パラリンピックのアルペンスキー男子座位で2冠の狩野亮選手らと写真撮影。


 【午後】0時30分、山梨県都留市のJR東海山梨リニア実験センター。リニア新型車両など視察。概要説明。試乗。ケネディ駐日米大使、葛西敬之JR東海名誉会長ら同行。3時13分、報道各社のインタビュー。57分、同県甲州市勝沼町の菱山地区。大雪による被災農地を視察。横内正明同県知事、小里泰弘農林水産政務官ら同行。4時20分、同町の勝沼防災センター。若手農業者と意見交換。5時1分、報道各社のインタビュー。43分、同県鳴沢村の別荘。6時8分、同県富士河口湖町の中国料理店「異彩中国菜館 湖宮」。秘書官と食事。8時30分、別荘。」



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「菅義偉官房長官は14日の記者会見で、熊本県の鳥インフルエンザをめぐり、
安倍晋三首相が13日に発生報告を受けた後もゴルフを続けたことについて問題はなかったとの認識を示した。
「感染リスクが低く、総合的に判断した。途中でゴルフをやめる必要性は全くなかった」と強調した。

 同時に「熊本県と連携を取りながら、非常に迅速な対応ができている」と説明。
「国民の皆さんに無用な不安を与えないようにすることも危機管理の一つだ」と述べた。」


疑問、本当に、電話したのか、ゴルフ優先で、ことをしたのではないか。
本当は、12日で、知っていたのかもしれない。
別荘にいないで、官邸にいれば、知っていたのかもしれない。
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13日は、

「 【午前】7時20分、山梨県富士河口湖町のゴルフ場「富士桜カントリー倶楽部」。ヒッチンズ駐日英大使、日枝久フジテレビ会長らとゴルフ。

 【午後】2時42分、報道各社のインタビュー。4時50分、公邸。51分、農水省の小林消費・安全局長。
57分、外務省の斎木事務次官、杉山外務審議官、上月欧州局長。6時11分、東京・富ケ谷の自宅。」

無視していたのではないか。
危機管理でなく、遊んでいる日曜日。

12日から13日は、仕事など、してなく、
危機管理もない、怠慢な二日間ではないか。

問題は、今後、どうか。



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「安倍晋三首相は13日、熊本県での鳥インフルエンザ発生に関し、午前8時に秘書官を通じ対応を指示したことを明らかにした。
山梨県富士河口湖町でのゴルフを終えた後、
記者団の質問に答えた。早期対応を強調することで、発生直後のゴルフへの批判を回避する狙いがあるとみられる。

 この日は午前7時20分にゴルフ場に到着。ヒッチンズ駐日英大使らとゴルフを楽しんだ。プレーを終え、
午後2時40分すぎにゴルフ場を出発。あらためて農林水産省から報告を受けるため公邸に向かった。

 政府は午前8時30分に首相官邸内危機管理センターに情報連絡室を設置。
午前11時から関係閣僚会議を官邸で開催した。首相は会議のメンバーに入っていなかった。」


これは、おかしい。お笑い。
ゴルフした後に、報告受けたというが、疑問。

遊んでいたのだろう。

12日で、知っていたのかもしれない。
13日に、熊本に行くのが、普通、いろいろ、行動する外遊する人が、疑問。


自衛隊が入るのは、速いのか、遅いのか。
どうも、一歩、遅れている気がする。
遅い気がする。
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2014年04月14日 05時03分03秒 | ニ言瓦版
赤毛題名が、問題なのかもしれない。
赤毛のアンと別だろう。
勘違いする。





「春の新作ドラマが目白押しだ。作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が注目の作品について言及した。

 * * *
 いよいよNHK朝ドラ「花子とアン」がスタートしました。幼い頃、『赤毛のアン』の愛読者だった私は、いったいどんな風に料理されるのかなと、かたずを飲んで見守っていました。

 冒頭、タイトルとテーマ曲が流れ、実写の「グリンゲイブルス・緑の切妻屋根」が大写しになった時。見たくない!と思わず眼を覆ってしまったのです。ひそかに心の中に描いてきた大切な世界。誰かに勝手に触られたくない、イメージを書き換えられたくない--偏屈かもしれませんがそんな感覚です。

『赤毛のアン』は昭和の少女のバイブル、とまで言われる独特なポジションの作品。熱中して読み込んできた愛読者はもの凄く多いはず。だから、きっと私の屈折した心理に共感してくれる方も、いるのではないでしょうか。

『赤毛のアン』の翻訳版が出たのは1952年。物語の舞台、カナダのプリンス・エドワード島は日本人にとってはるか遠い場所でした。その後も長い間、多くの少女読者たちは活字を通して、アンが生きる場所を思い思いに想像し、憧れを大きく膨らませてきたのです。 

 ビジュアルも情報も無い。風景が見えない。それがむしろ、想像力を発揮して、一人一人独自の「アンの世界」を創り上げる駆動力になったのです。

 アンの暮らす家や部屋、自然豊かな湖、谷、海岸線、細い路地に窪地……「プリンス・エドワード島」の地図を自分の頭の中に思い描くことが楽しい、という方、実は多いのではないでしょうか?

 海外旅行が手軽になって「赤毛のアン」ツアーが販売されるようになった昨今も、現地を訪ねたいという人ばかりではありません。「現地ロケに行ってきました」とばかり実写を大写しにするのはどうかほどほどに。

 そんな風に『赤毛のアン』は、少女たちの胸の中に深く棲み着いたナイーブで独特な世界。ドラマ制作の方々はもちろんご存じかと思いますが、改めて伝えておきたい気分です。というのも冒頭の2週間、そうしたナイーブさが感じられない演出に、少々残念な思いになったからです。

 山梨の農村で暮らす花子の一家は、いつも顔がうす汚れ、髪の毛はぼさぼさのまま。いくらドラマでフィクションが混じるにしても、ちょっと不自然すぎない? どんなに貧しくても顔くらいは拭くはず。それなりの身繕いをするのが日本人の習性ではないでしょうか。「貧しい」ということを、「汚れた容姿」と簡単に結びつけてしまう配慮のなさに違和感を覚えるのは私だけでしょうか?」



赤毛のアンの作家と、関係ないドラマであると、
思うと、それは、単なる、翻訳の仕事した人の話だろう。

別の物語と、思うしかない。

朝ドラは、昭和、貧しい時代しかないのか、大正の貧しい話か、
明治の貧しい話か。

いろいろ、文化が、裕福な時代も、明治、大正、昭和もあったのに。

いろいろ、偏ったイメージが、多いものだ。

汚い場面は、普通と、思うのが、問題。


===============
誰もは、この作家のイメージで見るものだ。


「ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日[1]に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイギリス系の祖先を持つ[2]。父方の祖父は、上院議員[2]。

モンゴメリが生後21ヶ月(一歳9ヶ月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った[2]。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた[2][3]。

1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった[2]。

1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。

島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ[2]。1901年と1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として[3]勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた[3]長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。

モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた[4]。1911年に最も親しかった従妹のフレッドを病気で失くす[3]。この喪失感は生涯続いた[2]。1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した[5]。

1935年にフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年にトロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが[6]、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーによると、うつ病による自殺。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。

モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンスエドワードアイランド大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしている。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著した。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行された。1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版した。}



似使わないことも、ある。
原作と、翻訳も、イメージ
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