原田國男『裁判の非情と人情』に、死刑事件での裁判員の判断について、こんな感想が書かれています。
司法研修所の司法研究で実施したアンケート調査の結果でも、国民側の回答では、約25パーセントの人が、犯行時少年であることを、刑を重くする要素に考えている。ところが、裁判官側の回答では、そのように考える人は、0パーセントであった。
何故かというと、おそらく、裁判官は、少年事件をやっていて、少年の大半は更生しているという現実を知っているからだろう。見た目がとんでもなく悪い奴でも、結局は更生して立派な社会人になっている。国民とはここでの経験の共有ができない。少年による重大な事件の報道を見て、読んで、そういう少年というのは悪い奴だ、だから刑を重くしないと効き目がないという発想になりがちだ。少年の更生改善を謳う少年法の理念をあっさり否定してしまうのである。
少年が更生する可能性の高さを知らない人が多いということよりも、応報感情や被害者感情が少年の更生より重んじられている、そして少年に死刑を科すハードルが下がったからではないでしょうか。
今まで永山基準があるため少年への死刑判決は慎重でした。
ところが、岩瀬達哉『裁判官も人間である』によると、光市事件裁判が永山基準を緩和し、死刑は「選択も許される」刑罰から、「選択するほかない」刑罰へと変わりました。
原田國男「わが国の死刑適用基準について」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)からです。
永山事件の第1次上告審判決で判示された永山基準に「極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない」とある。
ところが、光市事件第1次上告審判決は、「特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかない」と判示し、原則死刑、例外無期という判断枠組みを示した。
原田國男さんはこの判示に疑問を呈しています。
原則は無期で、死刑は例外だという永山基準を変えるべきではないという意見です。
高橋則夫「死刑存廃論における一つの視点」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)には、光市事件で最高裁は、犯罪が悪質な場合には原則として死刑という判断を行い、控訴審判決もそれに従ったのは、永山基準のうち「被害者遺族の感情」を重視したのではないかという推測が働く、とあります。
世論に押されての政治的判断や政策によって裁かれていいものなのかと岩瀬達哉さんは危惧します。
光市事件は死刑の選択基準を緩和し、少年であっても死刑を言い渡すという厳罰化への流れを生み出した。
しかし、更生の可能性を切り捨てることを憂慮する刑事裁判官は少なくない。
宮地ゆう、山口進『最高裁の暗闘』に、光市事件を担当した第三小法廷の濱田邦夫裁判長は「死刑と無期、2通りの判決文案を調査官室に作らせ」、「死刑派は無期派に迫った。「どちらが社会に対して説得力があるだろうか」その結果、無期派が折れたのだった」とあるそうです。
原田國男さんは、
と書き、注に「光市母子殺害事件の第2次上告審において破棄差し戻しの反対意見があったことからすると、死刑の執行は難しいと思われる」と記しています。
裁判員裁判では、死刑事件に限らず、すべての事件で多数決はやめるべきだと思います。