三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

B・R・アンベードカル『ブッダとそのダンマ』

2008年05月23日 | 仏教

『ブッダとそのダンマ』はアンベードカルが書いた仏教入門書。
とは言っても、そんなに読みやすくはない。

この本によると、釈尊の出家の動機はコーリヤ国との戦争を避けるためである。
シャカ族の国とコーリヤ国とは国境を流れる川の水利権を争っていたが、とうとう怪我人が出る衝突があり、宣戦布告をするかどうかが話し合われた。
釈尊は「戦争はいかなる問題をも解決しない。戦争を起こすことは我々の目的にそわない。別の戦いの種を蒔くだけだ。殺人者は殺人者を生み、征服者は己の征服者を作り、略奪者は己を略奪する者を生む」と言い、話し合いで解決するよう提案した。
釈尊の案は否決され、主戦論が可決された。
あくまでも戦争に反対する釈尊は、一族が社会的にボイコットされ、一族の土地を没収されないよう、出家して国を去ることにした。

こういう話は聞いたことがなかったので驚いたが、解説を読むと、アンベードカルの創作だそうだ。
釈尊の出家は四門出遊というたとえ話で示されるような苦しみからの脱却ではなく、政治的に強制されたものだと、アンベードカルは主張するのである。

釈尊が出家したあと、コーリヤ国との戦いに反対する示威運動が起こり、和睦をすることになり、争いは平和裡に解決した。
和解したのにどうして出家を続けるのか、戦争が終わったのだから、自分の問題も消滅したのだろうか、と釈尊は自問する。
「戦争は元々対立なのだ。それはより大きな問題の一部に過ぎない。この対立は王や国同士との間だけではなく、貴族とバラモン、家族間、母と子、子と母、父と子、姉弟間、仲間同士の間で起こっていることだ。国家間の対立は時折のものだが、階層間の対立は恒常で絶え間がない。これこそこの世の悲しみ苦難の根元なのだ」
「私の問題は一層深まったのだ。この社会的対立という問題の解決を見出さなくてはならない」
このようにアンベードカルは説明する。

不可触民の地位向上を第一に考えるアンベードカルとしては、個人的苦悩よりもまずは社会の問題に目を向けるのも当然だろう。
だからといって、個人の心を問題にしないわけではない。
「ブッダの教えで最初の際立った特色は、あらゆるものの中心に〝心〟をおいたことである。〝心〟は物事に先んじ、支配し造り出す。もし〝心〟を完全に把握すれば全ての事も把握できる」
「第二の特色は、我々の内外に起こるすべての善悪は心が生み出す」

アンベードカルの一生は不可触民への差別をなくす社会作りに捧げられたと言える。
そのためには制度を変えるだけではなく、人の心をも考えいかなければならないとアンベードカルは考えたのだと思う。

アンベードカルは、釈尊の教えは超自然主義、創造神、梵我一如、霊魂信仰、魂の輪廻転生、カルマ信仰、供犠信仰、死後の世界信仰などを否定していると言うが、しごくもっともである。

カルマ信仰とは前世の行為によって現在の生活が決められているという考えである。
「前世カルマ説は全くもってバラモン教義そのものである。現世に影響をおよぼす前世のカルマはバラモンの霊魂説と全く合致するがブッダの非霊魂説とは全然一致しない。これは仏教をヒンズー教と同じものにしようと考えた何者かか、仏教とはいかなるものかを丸で知らない者によって持ちこまれたものである」
「前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は正に邪悪なものである。このような教義を作り上げた目的は何であったのか。考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである」

貧しい人々の状態に対して前世カルマ説で「責任逃れ」をしたのではなく、その状態を維持するために積極的に前世カルマ説を説いていたのが日本仏教である。

面白いと思ったのが、第一結集のことである。
釈尊の入滅後まもなく、釈尊の教えと律を正しく記録するため、摩訶迦葉が中心となって聖典を編纂した(といっても文字に書きとめたわけではなく暗記)。
摩訶迦葉は阿難に教えを繰り返し読誦させ、次に優波離に戒律を繰り返し読誦させた。

アンベードカルは
「カッサパ(摩訶迦葉)は三番目に誰かにブッダの生涯の重要な出来事を記録するよう計ってみればよかったのに、彼はそれをしなかった」
「もしカッサパが記録を集めていれば今日我々はブッダの立派な伝記を手にしていたろう。だが彼はどうしてそうしなかったのか?」

と言う。
なるほどもっともな問いである。

アンベードカルはこの疑問の唯一の答えは「ブッダが自らを何ら特定の位置に置かなかったからである」と言う。
釈尊の遺言に「人に依るな法に依れ」という言葉があるが、釈尊は教団の後継者を決めなかった。
釈尊がブッダになったのは法によってであるから、釈尊の事跡よりも法を正しく伝えることのほうが重要なわけである。

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4 コメント

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ガンジー、そしてアンベードカル (硝煙)
2008-05-31 21:16:48
釈迦の対機説法(不文律)は、その意義には納得しますが 今となってはその弊害があると思われます。w

ガンジー、そしてアンベードカルについては こちら。  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1199511793/185-187
落ちた偶像 (円)
2008-05-31 22:26:46
>釈迦の対機説法(不文律)は、その意義には納得しますが 今となってはその弊害があると思われます。

ま、たしかに対機説法だからどうとでも解釈できるということはありますね。

ガンジーはインドでは神様みたいな人だそうで、インドに行った時のガイドも尊敬の念で語ってました。
がっかりです。
ブッダの原像 (万年中年)
2018-02-01 14:48:17
 >シャカ族の国とコーリヤ国とは国境を流れる川の水利権を争っていたが、とうとう怪我人が出る衝突があり、宣戦布告をするかどうかが話し合われた。

 ジャータカの536に、干ばつのときカピラバストゥとコーサラの間を流れるローヒニー川の水利権をめぐって争いがおこり、おしゃかさんが仲裁したというエピソードまでは記されてますね。
 そのあとの、主戦派との対立によって非戦派のおしゃかさんは政治から手を引いた云々というのがアンベートカルの創作だということですね。

 スッタニパータの第四章は最古層の部分ですが、935には
 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。(中村元訳)
 とありますね。愛媛の石手寺のご住職さんも、この一句がブッダの肉声のもっとも根源的な言葉だと指摘されてます。
 http://nehan.net/buddha-dharma/bukkyounyuumon3.pdf

 なかなか興味深いです。やっぱりわたしは、抽象的な思考をめぐらす前におしゃかさまが具体的に悩んでいたことはやっぱりこれ。ちいさな国のトップリーダーになるべく育てられたこと。
 
 また並川孝儀先生の著作を読むと、最古層のスッタニパータ第四・五章では、輪廻に対して否定的表現がみられるということです。古層のサンユッタ・ニカーヤ第一・四章やスッタニパータ第一~三章、ダンマパダ、テーラガーター、テーリガーターでは、肯定的に輪廻や業報について語られている、と。
 
 平岡聡先生のご指摘のように、業報説話にはやはり、差別がからんできますよね。在家信者に財政支援をしてもらわないと成り立たない出家集団。どれだけシャカ教団が革新的な教えを示そうと、在家がもつ古い常識的な宗教観に揺り戻されるということが、昔もあったのかな。
 そういうことが、徐々に身障者や病者に対する入門制限もきつくなっていった、、、というのもさもありなんですいかね。
理論と実践のギャップ (円)
2018-02-03 10:20:56
水争いということはアンベートカルの創作だと思ってました。
仏伝には、王子時代の釈尊は楽しいことばっかりあったように書かれていますが、実際は小国の苦労があったわけですね。

マガダ国はアーリア人の国ではなく、原住民の国らしいです。
ではコーサラ国はどうなのかというと、磯邊友美さんの論文にこんなことが書かれてあります。
「コーサラ国王がマータンガの末商であると伝える記述がLalitavistaraとその漢訳「方広大荘厳経.! il普曜経』や『イム本行集経』に見られる」
「マータンガ」とは何か。
「姓としてのマータンガをチャンダーラの一種であるとする理解が一般的になされるが、パラモンの法典類は、両者の関係をはっきりと規定しているわけではない。そのため、前谷彰(恵紹)[1995aJ rチャンダーリー・マータンギーについての解釈一新たなる視点より一J IT'高野山大学論叢.030,p .31は、法典類で不可触民として規定されたチャンダーラと同様の概念でもってマータンカそ捉えることはできないと言う。本稿では文脈等から理解されるので、マータンガを通説どおりチャンダーラの一種であると理解し、娘の種姓に言及する場合、彼女をチャンダーラとして扱うこととする」
えええっ、チャンダーラだとは。

釈尊の教えを聞いている仏弟子でも、差別意識があからさまで、チャンダーラを僧伽に加える教団になんて布施をしないぞと脅すわけです。
これはどういうことかと思いました。
はたしでアンベードカルの選択は正しかったのか。

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