三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

裁判員と死刑(3)

2022年03月09日 | 日記

井田良「いま死刑制度とそのあり方を考える」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)によると、ある調査では、殺人既遂または強盗殺人の事件の中で、検察官が死刑を求刑したのは2.6%、死刑求刑事件のうち、死刑判決が下されたのは55.8%だったそうです。(おそらく2010年の調査)

では、量刑の判断基準は何か。
原田國男「わが国の死刑適用基準について」にこう書かれています。

死刑判断については、被害者の数が第1である。次いで、犯行の動機、犯行の手段・方法等の犯罪自体の客観的な要素が重視される。そして、第3ラインとして、被害者遺族の被害感情、反省の程度等が考慮される。私は、これまで、犯罪の上記の客観的な要素からすれば、無期相当であるが、被害感情が強いから死刑にしたということはない。他の裁判官も同じだと思う。(略)遺族の被害感情が強ければ、死刑、そうでなければ、無期というのが公平であるとはどうしても思えないからである。(略)
また、反省の要素を重視しすぎると、裁判所に反抗的だから死刑、ふてくされているから死刑ということになりかねない。


応報刑論では、量刑均衡の原則といって、犯した罪とそれに対して科される刑罰が釣り合い(均衡)が取れていなければならないそうです。
軽い犯罪には軽い刑罰、重い犯罪には重い刑罰が科されるということです。
ところが、裁判員裁判では被害者感情が重視されるようになりました。

井田良さんは、犯罪が減少しているのに、死刑適用基準を緩和して、より多くの死刑を言い渡す方向に変化させなければならない理由はあるのかと問います。

殺人の認知件数は1954年の2790件をピークとして一貫して減少しており、死刑言渡しの数も減少した。
刑法犯の認知件数は平成15年から減少し続けており、令和2年は戦後最小を更新しています。
刑務所や少年院など矯正施設の収容者数も減り、何か所も廃庁になっています。

ところが、2000年代に入って死刑判決言渡し数・確定数は増加傾向に転じた。
被害者遺族が刑の軽すぎることに不満をもち、刑事司法に批判を加え、マスメディアもこれに協力して重い処罰を求めるようになった。
被害者遺族の処罰感情の表明に影響されて、裁判所の死刑適用基準が微妙に変化している。
しかし、従来の死刑適用基準を重くする方向に変更すべきことを正当化するような事情・要因はまったく存在しない、と井田良さんは言い切ります。

岩瀬達哉『裁判官も人間である』は、2008年に導入された被害者参加制度によって、法廷が感情化し、刑事裁判に与えた影響は甚大なものがあったと指摘します。

裁判員裁判がはじまった2009年5月から2014年3月末までの約5年間で、検察官の求刑より重い判決を言い渡す「求刑超え」は43件にのぼった。
裁判官だけの裁判では求刑超えとされたケースは2件だけだった。

元東京高裁裁判長「本来、量刑は責任に応じた刑を科すべきで、そこには自ずと幅が生じます。反省しているとか、更生の可能性があるとか、妥当と思われる幅の範囲内で量刑を決めるのが現代刑法の基本。その幅を超えてはいけないし、下回ってもいけない。いわゆる「量刑傾向」を守らなければ著しい不公平が生じるからです。
ところが、国民の司法参加がはじまって以来、法廷はものすごい空気に包まれるようになった。傍聴席の半分を被害者の家族や友人が占め、裁判官を睨みつけている。少しでも軽い刑を言い渡そうものなら許さない、というオーラが伝わってくる。それを跳ね返しながら、量刑理論に従った刑を言い渡すのは大変。目の前にすごい圧力があるから」

 

元東京高裁裁判長「世論というものは必ずしも公平じゃなくて、自分たちがなるかもしれない被害者の立場に立ちやすい。裁判官でも自分が担当しない事件については、重めの意見が出やすいものです。まして一般市民から選任された裁判員は、いったん被告人とされ、法廷に立たされた人には予断を持ちやすい。その被告人にも家族があって人権があって、同じレベルで考えてあげないといけないという気持ちをなかなか持てない。社会というのは犯罪によって被害を受ける立場にあるわけだから、裁判員は被害者的立場がストレートに出やすい。その裁判員に、人の一生を左右させる判断を委ねるというのは、僕は間違いだと思う」


被害者の応報感情と被害者支援について、平野啓一郎『ある男』はこのように述べられています。

何か、よほどのことがあれば、人を殺してもいいという考え自体を否定することが、殺人という悪をなくすための最低条件だと思う。簡単ではないけど、目指すべきはそっちだろう。犯人のことは決して赦さないだろうけど、国家は事件の社会的要因の咎を負うべきで、無実のフリをして、応報感情に阿るではなくて、被害者支援を充実させることで責任を果たすべきだよ。いずれにせよ、国家が、殺人という悪に対して、同レヴェルまで倫理的に堕落してはいけない、というのが、俺の考えだよ。


では、被害者の支援をどう考えればいいのかが、高橋則夫「死刑存廃論における一つの視点」で論じられています。

光市母子殺害事件差し戻し控訴審は元少年に死刑の判決を言い渡した。
この事件は、被害者遺族の思いがメディアを通して広範に報道された結果、国民の多大な関心事になった。
しかし、国家刑罰権は被害者という私人の応報感情のみで行使されるわけではない。
応報感情の充足の前に、被害者の回復感情の充足という課題に取り組むべきである。
高橋則夫さんは、この課題の答えの一つとして修復的司法を取り上げています。

怒りや恨みを別なものに変えていくお手伝いも被害者支援の一つだと思います。

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