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京都まち歩き

いつも京都の街を見ながら、少しづつ、京都の街を散策しております
京都の行政書士です。歩く街京都!

世にも不思議な町 こいのぼりが上がらない

2021-05-02 19:39:52 | 日記
私の、住んでいる町は、こいのぼりが1本も上がりません。
嵐山の松尾の神様が、鯉に乗って、来られたからといういわれがあります。その大井町は、こいのぼりが1本も上がりません。また、鯉料理も誰も食べません。お鯉様を、まつっているからです。
私が生まれた、保津町は、前が川で、鯉や、アユをよく食べます。京都市内でも、嵐山や、京料理には、鯉のアライや、鯉の甘露煮が出ることがあります。私は、郷に入っては、郷にしたがえということで、よく食べました。
しかし、大井町では、絶対食べません。

お墓参り

2020-09-21 18:28:54 | 日記
今日は、朝から、亀岡のたわわという農協の野菜スーパーに行ってきました。
朝9時過ぎだというのに、駐車場は、満車です。
それに、レジに並んでいる人も、6か所ぐらい空いているのに、長い行列です。私が、かごに1つ入れて、レジの順番を並んで、妻が、必要なものを買っていました。
このペースだと、午前中には、ほとんど売り切れるみたいです。
ここで、お墓に行く、しきみと花、そして少しの野菜を買って実家の墓参りです。
いつも思うのですが、今日も、何十年ぶりかの親戚の人に会った。
お墓参りは、いろいろな人とめぐり合わせてくれるみたいです。
その後、少し仕事をして、食事に2000円の食事に、1000円オフです。
今日も、車が多かった。

保津川下り 船頭言葉

2020-09-05 20:57:06 | 日記
私の父は、保津川下りの船頭でした。
父の言葉に面白い言葉がありました。
農作業をしていても、夕方、浜に行ってくるという言葉をよく使いまいました。
浜とは、保津川下りの乗船場の会社のことです。
明日の予約がどれぐらいあるか見にいくということです。
帰ってきて、明日は、15はい、知れているとかよく言いました・
1ぱい、2はいは、予約船の数です。それで、明日の順番がわかるようです。
保津川下りには、4班ほどあり、いつ頃自分の順番かわかるようです。
知れているとは、予約があるという意味です。
保津川下りには、4つの班があり、1つには、川の下の篠町の山本の班、
もう1つには、川の上の勝林島と保津の一部、もう1つは、保津の地区、そしてもう1つは、保津でも
下の浜の班、昔のいかだ流しの流れでしょうか?
今では、世襲がなくなり、船頭も、若返りました。

保津に生まれる⑤

2020-08-27 21:23:09 | 日記
昔から、保津川は、重要な川であった。
都に物資を送る川として豊臣秀吉もいかだ船を送っている。
また、角倉了以も保津川を切り開いて、都に物資を送っています。
その後、田中源太郎は、鉄道を引き都に物資を送っています。
昔、嵯峨嵐山に製材所が多かったのも、ここで、水揚げして都に調達しています。
また、鉄道ができてからは、二条駅近辺に製材所や、木材店が、今でも多く残っています。
いつも重要な川でした。鉄道や、材木商の私のおじいさん山口惣次郎は、トラックを取り入れました。
明智光秀は、この亀岡で天下を取りました。その後、譜代大名でいつの時代も、重要な位置だったようです。この丹波亀山で生まれて、この保津川で産湯につかり、この保津川で育ち、保津という名前に感謝しております。
保津川は、亀岡から、嵐山までの名前で、その下は、大堰川、桂川、そして淀川です。また、亀岡より北は、大井川、またその上は大堰川です。一時阪急と組合が衝突したときに、保津川と、保津川下りを守ると、選挙公約に入れたのは、蜷川虎三さんでした。蜷川さんのおかげで、保津川も、保津川下りも今も残っています。
1つの川なのに、桂川でいいのではないかといった阪急も、身を引いてしまいました。
私は、大学生の時、石川県金沢市に4年間いたときに、堂々と、保津川下りの亀岡市保津町ですと言いました。保津と保津川下りに感謝しております。

保津に生まれる④

2020-08-25 20:23:41 | 日記
子供のころは、よく保津川下りの船に乗せてもらった。
十三詣りに行くときも、船で行った。午前中に船で下り、渡月橋を歩いて、法輪寺にお参りして、午後、父がまた下ってきたときに、父と一緒にトラックで亀岡まで帰りました。
昔は、船と一緒に船頭も乗っていました。
今は、船頭は、JRで帰ってきます。
この保津川下りも、私が中学生のころに、京都交通から、阪急に経営が変わった時に、大幅な合理化案が出されて、船頭が、労働組合を作り、そして、その合理化案が飲めないと、組合がストライキに入り、保津川下りがストップしました。話が長引いて、中々折り合いがつかないときに、組合が、自主運営の道を考えて企業組合を作り京都府より特殊ではありますが、保津川下りの伝統を守るということが京都府の認可を受けました。しかし、船がない。兵庫県の香住に木造船を作る大工さんがいるということで、その浦川さんを香住から呼んで造船に取り掛かった。保津には、青山さんと、伊豆田さん、早田さんという船大工がいましたが闘争が長引いたため、皆、他の仕事についた。また、一人ではできないということになった。何とか、船ができ運行ができるようになったころ、イギリスの皇室から、保津川下りをしたいという話が入ってきた。日本政府は、困ったことになったといって、何度も調査に来ました。トイレはあるかとか、いろいろと、注文も入りました。イギリスの皇室は、前にも来ているので、日本に行くなら、保津川下りをしたいということになったらしい。私も、授業をさぼって、日本と、イギリスの国旗をふって歓迎をしました。