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マスコミ報道の歪み(3)シリア内乱工作の視点ゼロ   文科系  

2018年02月01日 13時25分16秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 この題名でしばらく連載を続けたい。「マスコミ報道の歪み」という意味内容で。

 本日中日新聞4面左下にこんな見出しの記事がある。
「シリア新憲法 実現性に疑問符」
「設立合意で『国民対話会議』閉幕」
 内容もこの見出しの通りだが、この見出し自身が歪んだ内容、視点だとずっと愚考してきた。その歪みの焦点はここ。
「ただ、主要な反体制派は、アサド政権を支えるロシアが主導する和平協議に反発し欠席。合意の実現性を疑問視する向きもある」
「会議ではアサド大統領の処遇には触れられなかった」

 主要な反体制派とは、サウジ、アメリカなどが工作し続けてやっと生き延びてきた存在とは、誰でも知っている事実だ。破壊的兵器を与えるだけではなく、アメリカなどの顧問団までつけた軍事訓練までを施してきたと広言してきたのである。
 他方、アサド大統領は国連も認めた独立国。この独立国の要請で政権支援をするとすれば(イラン、ロシアがこれをやっている)、これは言わば集団安保支援と同様である。だからこそ国連は、「反体制派」が出ようが出まいが、この会議を国連仲介のジュネーブ和平会議の一環と認めて、特使を派遣しているのだ。

 こうしてつまり、この中日新聞記事はサウジ・アメリカ寄りに過ぎると言いたい。極言すれば、反乱支援記事とも言える。反乱支援の立場をずっと正当化してきた「国際問題」、アサド政権の化学兵器使用問題一つ採っても、あいまいな点が多すぎて何の実証もないだけでなく、これでもって内戦組織をするのでは完全な国際法違反になる。丁度、アメリカが言う「ならず者国家」がなぜそうなのかという理由もあいまいなままにこれを潰してよいとしてきたのを支援するも同様の記事と言える。日本の新聞がこぞって、イラク戦争を支持したような。

 国連は内政干渉を禁じている。アメリカも国連に従うべきだ。アメリカがそうでないからこそ、今の世界が荒れているのだから。アフガン戦争、イラク戦争、シリア内乱、そして今北朝鮮。北朝鮮政府の評価は国民が決める事であって、アメリカがこれを決めて「だから、潰して良い」と戦争を仕掛けるのは言語道断である。同じく、国連制裁決議以上の事をしてよいとするのは、先制攻撃つまり戦争を仕掛けるのと同じことだと考える。

 新聞は、国際問題でアメリカよりに過ぎる。もっと国連寄りの視点で書くべきだろう。トランプがこんなことを広言し出した現在、緊急のマスコミ歪み是正課題である。
『弱さは紛争に繋がる。比類なき力こそが確実な防衛手段になる』
『常に米国の利益に沿い、米国の友人だけを支援する』
 アメリカのこういう力が、イラク戦争のように国連を制止を振り切って成されたという意味で国連を無視しつつ行使されるとすれば、これは世界が認めないものというべきだ。
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天皇が太平洋戦争を決定した場面   文科系

2018年02月01日 10時25分18秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでも常にこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたということはない、と。このことについて、ある本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)が反論を実証した開戦決意の瞬間と、その前後の論証とをまとめてみたい。

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」

『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である

2 「能動的君主」としての天皇

 9月6日決定の「帝国国策遂行要領」

『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである

 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

 前日9月5日、両総長とのやりとりなど

『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。

 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。


 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる

 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。
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