黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ジュリコの名はジェリコー 改稿

2012年05月22日 10時45分07秒 | ファンタジー

 ジュリコの本当の名は、ジェリコーという。ジュリコは、アメリカンコッカースパニエルの純血種の雌で、昭和五十一年ころの稚内では見ることがない珍しい犬種だった。ペットショップで一目惚れした私の妻と彼女の妹は、高価な値札がついた子犬の許に丸二日通った末、耳の長い黒白まだらのインパクトの強い犬から離れられなくなった。
 命名の由来は、十八世紀末から十九世紀にかけて活躍し、後の印象派などにも影響を及ぼしたフランス人画家テオドール・ジェリコーに行きつく。なお、語尾をジェリコと切ると、約九千年前の難攻不落の都市の名になる。せっかく格調高い名をいただいたのだが、娘たちは、当時ジュリーという人気男性歌手の名前に感応して、いつしかジュリコと呼ぶようになった。
 小さな彼女はあまりにも弱々しかったので、始めは家の中に置かれた。その後、飼い主が排泄のしつけに失敗したことや、人が寝静まった夜中、ゲージの中で鳴き続けたことから、数ヶ月して、何代か前から使われてきた玄関先の犬小屋に住むことになった。ジュリコは子犬のころ、あまり人見知りしなかったというが、あるとき人間たちのいざこざを目の当たりにして、家族以外の人間に対し敵意を抱くようになった。
 私がジュリコに会ったのは、会社の同僚たちといっしょに稚内の南にあるサロベツ原野へドライブするため、妻を迎えに行ったときだった。家に近づいた私に対し、ジュリコは敵意をむき出しにして猛烈に吠え、飛びかかろうとまでした。危険を感じた私は、玄関から遠く離れて立ちすくんだ。
 私は、将来設計が立てられないまま二十五才まで関西の大学にいた。昭和五十二年、とある北海道の会社の試験に合格して、勤務地の稚内にやってきた。そして職場の同年輩の仲間たちと遊びほうけていた。妻もその仲間の一人で、彼女の実家にときどき通ううちに、次第にジュリコから一目置かれるようになり、いつしか吠えられなくなった。半年ほど経つと、尻尾を振って歓迎してくれるようになった。序列はともかく家族の一員として認められてからは、私が鎖を持つと飛び上がって喜んだ。散歩しながら公園に行くと、人間と同じように、ブランコに乗りたがり、滑り台やジャングルジムによじ登って遊んだ。
 私たちが昭和五十四年に結婚し、一人住まいになった妻の母親は、その年の秋ころ娘の一人と同居した。実家の土地と建物は隣家の人に買ってもらった。ところが、稚内在住の子供たちは皆アパート暮らしで、ジュリコを引き取る条件の整った家族はいなかった。
 その当時、実家の近所に懇意にしていた家族がいた。母親と息子夫婦、二人のまだ小さな孫娘という家族構成で、動物好きのやさしい人たちだった。彼らは実家の窮状を知り、ジュリコを飼ってくれることになった。犬小屋とともにジュリコをその家に連れて行くと、ジュリコは引き取られることを理解しているかのように、彼らにすぐ慣れ親しんだ。私たちの住居はそこから十キロメートルほど離れていたが、できる限りジュリコに会いに行くようにした。そのときのジュリコは、私たちの体に何度も飛びついて止めようとしなかった。
 その年の大晦日が間近に迫った日のこと、突然その家から、ジュリコが死んだと電話があった。ジュリコは犬小屋の中で凍死していた。まだ、三歳の若さだった。外の犬小屋で冬を越すのは四度目で、寒さが死因だとは思えなかった。苦しがって転げ回ったのか胴に鎖が巻き付いていた。死因は不明だった。その家の人たちによると、ジュリコの様子は前日まで食欲があり特に変わったところがなく、夜中、声や物音などにも気がつかなかったという。引き取って三ヶ月ほどしか経たないジュリコの亡骸の傍らで、彼らは言葉少なに悄然と立っていた。しかし、動転した私と妻は、ジュリコを家に連れ帰るのに精いっぱいで、彼らの気持ちを推し量ることや世話になったお礼すら言う余裕がなかった。
 妻はジュリコの凍った体を抱いて、何時間も泣いた。後日、死の一、二週間前にその家の人が撮ったジュリコの写真を見ると、顔には寂しそうな表情が浮かんでいた。体調が悪かったのか。忙しさにかまけて、死ぬ前の数日間、会いに行ってなかった。ジュリコの三年間の生涯は幸せなものではなかったかもしれない。実家にやって来た時期は、父親の死後、残った借金のことで親戚を巻き込んだ騒動になっていた。それからの二年間、三人の娘たちが次々と結婚し実家を出た。一人残った母親までもが引っ越して、自分が忘れられてしまいそうで随分心細かったことだろう。
 現在、妻と二人の妹たちは、動物とともに暮らす生活を選んで二十数年になる。彼女たちは、今でも心の底にジュリコへの自責の念を沈めながら、彼女にかけられなかった分、他の動物たちに愛情を捧げようとしていると思えてならない。

コメント
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