ランチでお腹を満たした後は、会津若松近郊をちょっとドライブ。神指(こうざし)城跡(紹介記事)へ行ってみることにしました。
神指城とは、上杉景勝は築城を試みたものの、それが徳川家康による上杉征伐の口実となり、会津征伐や関ヶ原の合戦を経て廃棄されたもので、先ずは二の丸の土塁跡にあり、国指定の天然記念物となっている「高瀬の大木」(けやき)へ到着です。
(写真をクリックすると、説明板の拡大写真が別ウインドウで開きます)
完成すれば若松城(鶴ヶ城)の2倍ほどの広大さだと言いますから、世が世なら会津若松の市街はこのあたりに展開されていたかもしれないのですが、現実には田園風景の中に僅かながら城郭跡が残るに留まっており、歴史の流れを感じます。
二の丸から本丸方面へ移動。途中、本丸跡の近くには神指城跡の案内板も建てられていました。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
そして本丸跡へ到着。
時間の関係で歩かなかったのですが、本丸をぐるっと巡る遊歩道もあるようです。
さらに南側の土塁跡にある如来堂(紹介記事)まで移動。ここには新選組殉難地の碑が建っていました。
会津戦争の際、会津に残留した山口次郎(斎藤一)らの部隊が新政府軍と激戦を繰り広げた場所とのことです。
神指城とは、上杉景勝は築城を試みたものの、それが徳川家康による上杉征伐の口実となり、会津征伐や関ヶ原の合戦を経て廃棄されたもので、先ずは二の丸の土塁跡にあり、国指定の天然記念物となっている「高瀬の大木」(けやき)へ到着です。
完成すれば若松城(鶴ヶ城)の2倍ほどの広大さだと言いますから、世が世なら会津若松の市街はこのあたりに展開されていたかもしれないのですが、現実には田園風景の中に僅かながら城郭跡が残るに留まっており、歴史の流れを感じます。
二の丸から本丸方面へ移動。途中、本丸跡の近くには神指城跡の案内板も建てられていました。
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そして本丸跡へ到着。
時間の関係で歩かなかったのですが、本丸をぐるっと巡る遊歩道もあるようです。
さらに南側の土塁跡にある如来堂(紹介記事)まで移動。ここには新選組殉難地の碑が建っていました。
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会津戦争の際、会津に残留した山口次郎(斎藤一)らの部隊が新政府軍と激戦を繰り広げた場所とのことです。
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