OH江戸ライフ

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とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

明治天皇すり替え説 ②

2016-10-11 | 人物

こっちのオサムライさんにも似てるけど、エグザイルの人にも似てないか?


前回は興奮のあまり、疑惑ポイントがとっ散らかったまま終わってしまったので、あらためて整理してみます。

すり替え説の根拠:

① 睦仁親王の身体的特徴・性質が、即位前後(14~5歳頃)でまったくちがう(後で検証)

② 聖徳太子が十七条の憲法で「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」とまで言及し、その後歴代天皇が篤く保護してきた仏教を維新後あっさり捨てた。
  しかも、周囲の公家たちもそれに反対したような気配がない

③ 明治天皇生母・中山慶子の墓が文京区にあるようだが、実子のはずの明治帝もその子孫も今までお詣りにいったことがない(らしい) 

④ 天皇の奥さんは皇后と称されるはずなのに、なぜか「昭憲皇太后」と言われている。
 これは、睦仁親王の妻だった一条美子は、明治天皇の妻ではない証拠
(皇太后とは、前の天皇の正妻に対する称号なので、孝明帝 →(睦仁親王)→ 明治帝を暗に示してる

⑤ 明治期に官僚・政治家を歴任した田中光顕(土佐藩出身)が昭和4年(1929)、いろいろヤバイことを証言している(らしい)
  それによると、
「睦仁親王は幼少のころ種痘を受けたので、疱瘡(天然痘)にかからず、顔に痘痕(あばた)はなかった。
ところが、明治天皇になった大室寅之祐は、家がビンボーだったので、幼いころ天然痘にかかり、口のまわりに痘痕が残ってしまった。
 だから、明治帝は写真を撮られるのがきらいで、キヨッソーネに描かせた肖像画を写真に撮らせて御真影とし、痘痕を隠すためヒゲもはやした」そうですが……。

写真、20歳ころのが残ってるよ?
昨日の、
これとか、とかこれも。

(疱瘡にかかったウンヌンは、江戸人は記録魔なので、皇太子が疱瘡などという大病(江戸時代は死に至る病)に感染したら必ず記録に残るはずだから、調べればはっきりわかると思う

また、この田中さんは、こんなことも言っているそうで……

「これまで60年間、だれにも話さなかったことを君にだけ話すね。
今現在、生者の中でコレを知っているのは、私以外では西園寺公望公爵ただ一人……」と、めっちゃ思わせぶりな前フリのあと、
じつは、明治天皇は孝明天皇の皇子じゃないんだ。
 孝明天皇は大政奉還直前、突如崩御なされ、その皇位を継いだ睦仁親王が明治帝となったとされているが、本当はこの人は後醍醐天皇の第11皇子・満良親王の子孫。
 この血統は、毛利家祖・大江氏から幕末にいたるまでずっと萩(長州)でかくまってきたもの。
 それを皇位につけようとしたのが吉田松陰からはじまった長州藩の王政復古運動だったんだ
 松陰亡きあと、この勤皇の志士を統率したのが明治維新元老・木戸孝允(桂小五郎)。
 そして、もともと長州藩とは犬猿の仲だった薩摩藩の西郷隆盛と桂を引あわせ、薩長連合を成立さたせたのが、わが土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎。
 つまり、薩長連合成立の真相は、桂が西郷に『この南朝皇統を立て、真の王政復古=南朝革命をしよう』と誘い、南朝側忠臣・菊池氏の子孫だった西郷がこれに乗って、藩主以下公武合体派だった薩摩藩を尊皇討幕に転換させたことがターニングポイントだった」(ざっくり意訳)
的なことを話しちゃっているらしいのです
(三浦芳聖著「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」に書いてあるそうですが、国会図書館に行かないと読めない

ほかにも、松江藩士の子で、京都帝国大学教授・学習院院長・宮中顧問官をつとめた山口鋭之助(1862年生)も、
明治天皇は孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入ったと言っていたとか。
(こっちは出典不明)

てな感じで、驚天動地のすんごい陰謀論が展開されているわけです

でも、ゴマ的にはちょっとひっかかることがあって、すり替え説には「?」なのです。

それは、以前、某サイトで書いた「大原重徳」の存在でした。

大原重徳:享和元年(1801)~明治12年(1879))

大原ちゅー人は、佐幕派からすると、めっちゃウザイじいさんなのですが、ゴマはある種敬意すらいだいている方なのです
なにしろ大原はブレないっ!

ご存じのように薩長どもは、明治期になると「攘夷」を旗印として幕府を倒したにもかかわらず、鹿鳴館に象徴されるような西洋崇拝&祖国日本の劣等視に転じ、恥じることすらしませんでした。

ところが、大原だけは、この厚顔無恥な転身に抗議したのです。

大原「ただただ徳川氏へ対せられ、御不都合と存じ候
(講談社選書メチエ、著・久住真也「幕末の将軍」より)

いままでさんざ幕府を「攘夷」でイジメておきながら、倒幕したら、コレ? ねぇ、徳川さんに対して申しわけないと思わない(意訳)

この言葉が発せられたのは、鳥羽伏見の戦い直後の慶応四年(明治元年・1868)二月・三月、イギリス・フランス・オランダ三公使が御所への参内をゆるされ、明治天皇に謁見したときだそうです。

大原は、かつて孝明天皇が主張した鎖国方針によって幕府を倒した薩長が、倒幕直後、早くもそれを撤回したことにブチ切れ、新政府議定職の松平春嶽に涙ながらに抗議したといいます。

(でも、抗議した相手が徳川親藩筆頭の越前松平っていうのは、ちょっとどーなの
 どうせなら、桂とか西郷・大久保に言えよ

……というのはおいといて、こういうガンコじいさんが政府内にいて、上記のようなクレームがあったとしたら、すり替え説にはムリがあるんじゃない

だって、大原のプロフィールを見ると、光格天皇(孝明天皇祖父)の侍童からスタートして以来、ずっと歴代天皇の傍におり、「廷臣八十八卿列参事件」なんつーのにも参加して処分までされたバリバリのジョーイさん

なので、もし明治天皇=ニセ者だったら、夷狄と新帝が会うことになっても泣いてまで抗議するかいな?、と思ったのです
ましてや、この人が睦仁親王の顔を知らないはずはないわけで……

そして、さらにすり替え説①の根拠とされた写真にも疑問が……(つづく)
 
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