OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

和ちゃんは、けっこうかわいそう(涙)

2020-05-06 | 人物
今日は、徳川2代将軍・秀忠の5女、和子ちゃんのかわいそうな身の上について語っていきたいと思います。
(今回は長編やで



徳川和子(東福門院)

(あれ、和ちゃんってママ似?

(和ちゃんママこと、お江さん)

某所で忠長くんのことを書いているので、しかたなく関連する人たちについても調べたりしているのですが、どうも秀忠・お江の子たちって、あまり幸せになっていない気が……

だって、長女の千ちゃんは、幼くして大坂に送られて、十八歳で夫・秀頼と死別。
その翌年、当代一のイケメン・本多忠刻と結婚するも、十年後には夫が病死。その前年には嫡男も夭折。
しかも、この結婚は、頭のおかしいオッサン(坂崎出羽)に拉致されそうになるという、いかにも縁起の悪い門出だったりしました。


前田家に嫁いだ次女の珠ちゃんは、結婚生活はそこそこ円満だったものの、24歳の若さで死亡。
その死の直前には、実家からついてきた乳母がわざと夫婦仲を裂くようなことをしでかし、失意のうちに亡くなったとか


従兄の松平忠直の正室になった三女の勝ちゃんは、乱心した夫に斬り殺されそうになり(身代わりに侍女2名が犠牲に )、夫は配流。
でも、勝ちゃんももともと気が強くてトラブルメーカーっぽい人で、勝ちゃんにメンタルをけずられた孫娘とそのダンナ(福井藩主・松平光通)が自殺。
息子・光長ものちにお家騒動で改易となり、配流されました。


四女の初ちゃんは、又従兄の京極忠高のもとに嫁ぐも、夫婦仲は悪く、二十九歳で病没。
このダンナは、奥さんの臨終の報せもシカトし、相撲見物に興じつづけていたそうな。


で、五女が和ちゃんということになるわけですが、この人もまた御多分に漏れず、あまり幸せとはいいがたい人生を送ることになるのです 

和ちゃんのプロフィール的なものを紹介しますと、

慶長12年(1607)10月4日、江戸城で誕生。

慶長17年(1612)後陽成天皇の第3皇子政仁親王が即位し、ジッチャンの家康は孫娘の入内をゴリ押し。

慶長19年(1614)4月、めでたく入内宣旨が出されたもの、年末から翌年にかけての2度の大坂の役、その翌年(元和2年)4月に家康が、そのまた翌年8月には先帝(上皇)・後陽成院の崩御など不幸がつづき、その服喪のため入内が延期されまくっていたら……

なんと! 夫となる後水尾天皇に一の宮(第1皇子)ができてしまったのです!


これがかの有名(?)な『およつ御寮人事件』でございます!

およつ御寮人こと四辻与津子は、どうやら元和4年(1618)初めころ、後水尾天皇のもとに出仕してすぐに寵愛を得、その年の10月には第1皇子となる賀茂宮を出産。翌元和5年6月には第1皇女・梅宮も誕生しちゃいました

もともと帝は、成り上がりものの徳川から正妃(女御)を迎えることを快く思っていなかったこともあり、これはけっこう確信犯的所業な気がします

とはいえ、われらが(??)秀忠公が、メンツをつぶされたまま黙っているはずもなく、都に乗りこんで、与津子の兄(四辻季継)らを配流に処し、与津子と梅宮を内裏から追放したうえ、落飾させるという強権発動に出ました 

そんなこんなで、和ちゃんは、元和6年(1620)パパが大掃除をしてくれた内裏にやっと入ることができたのでした。

そして、元和9年(1624)11月、第1皇女(梅宮はいなかったことにされた)女一宮(興子内親王)を出産。

寛永2年(1625)9月、女二宮を出産。

寛永3年(1626)11月、待望の皇子・高仁親王が誕生! ―― と思いきや、寛永5年(1628)6月、高仁は夭折。

そんなとき、今度は『紫衣事件』で、ヘソを曲げた夫・後水尾が突然退位してしまうのです!(寛永6年11月)

後水尾が放り投げた帝位はまだ7歳の興子内親王が継ぎ、後世、明正天皇と呼ばれる女性天皇になりました。

激動の人生を歩んだ和ちゃんは、延宝6年(1678)72歳で亡くなります。


いろいろあった和ちゃんですが、なにが一番不幸だったかというと、個人的にはダンナのキャラがかなりアレだったことではないかと思うのです。


(性格がアレな夫=後水尾)

その根拠は言いますと、この人は自分の実父に、わざわざ歴代天皇の中でもワースト1、2を争う暗君(といわれている)『陽成』帝の名をもとに加後号を贈ったからです。

加後号の説明をする前に、基本天皇(帝)は在世中には、『後陽成』とか『後水尾』とか『孝明』とか呼ばれることはありません。
この『――』は死後につけられる称号=追号(通称)で、加後号というのは、それ以前の帝の追号に『後』の字をつけたものです。

では、その『陽成帝』はどんな人かというと、在位中に宮中で乳兄弟を殺すなどの乱行があり廃帝になった人物といわれています。

つまり、たとえて言うなら、世間を騒がせるような凶悪犯罪をおかして死刑に処せられた犯人と同一の戒名を、あえて自分の父親につけるような感じでしょうか 

じゃあ、後水尾自身はというと、ちゃっかり生前に自分の追号(もちろんイイ感じの)を決めてから亡くなっています(これを『諡号』といいます)

……なんか、すんごくイヤな性格じゃありません?


それに、例の『およつ御寮人事件』の四辻与津子って、父・後陽成さんの時代に起きた『猪熊事件』の首謀者・猪熊教利の実妹だったりするのです!

猪熊事件というのは、慶長14年(1609)に起きた宮中スキャンダルで、公家6人、女官5人が乱交を重ねた「ひぇ~! お盛んで……」な事件でした。

で、この猪熊は、『天下無双』といわれるほどのイケメンで、光源氏や在原業平にたとえられる人気者だった一方、人妻でも女官でもおかまいなしに手を出す『公家衆乱行随一』と称されるくらい下半身的にヤバいやつでした。

そんな爛れた性活をつづけていた猪熊は、とうとう慶長12年、女官との密通がバレて、ブチ切れた後陽成天皇から勅勘をこうむり、京都から追放されました。

ところが、ツラの皮の厚い男は、コッソリ京へ舞い戻り、今度は複数の不良仲間(公卿)といっしょにしょうこりもなく女官との不義密通を再開したのです。

女官というのは、広義では「宮廷に仕える女性」のことですが、中には天皇の側室(侍妾)を兼ねている者もいました。

実際この事件では、後陽成の寵愛深い広橋局(典侍)ら5人の女官が遠島になっています。

ということは、まかりまちがえたら、帝の胤ではない子が皇位を継いだ可能性もあり、知らないうちに皇統が断絶していた可能性もあったわけです!

これには後陽成も爆ギレで、関係者全員の死罪をもとめましたが、結局死罪になったのは首謀者の猪熊と、男たちを手引きした歯科医の兼安備後の2人だけで、後陽成はこのぬるい処分にキレて、退位してしまうのです。


(側室たちを寝取られてブチ切れ、退位してしまった後陽成さん)


ようするに、 息子の後水尾は、ヘタしたら、皇統断絶の托卵をしたかもしれない極悪人(猪熊教利)の実妹を、そうと知りながら自分の側室にしていたんです!



この時代は、現在とちがって、一族の中から犯罪者、しかも極刑に処せられた罪人などが出たら、連座するのが当然なのでは?
なのに、出仕させて、皇子まで産ませるって……

「いやいや、後水尾は与津子が罪人の妹と知らずに寵愛したのでは?」という人がいるかもしれませんが、公家社会は狭く密なコミュニティ。内裏に出仕する者の素性をごまかすのはまず不可能で、与津子の身元を知らずに召し上げたということは考えられません。

後世のわれわれは後水尾に多くの皇子が生まれたのを知っていますが、四辻与津子は後水尾の第1皇子を産んでいて、もしほかに男児が生まれなければ、新帝の伯父は死罪になった極悪人という事態になりかねなかったわけです。

だから、秀忠が京都に乗り込んで与津子らを追放したのは、和子の入内ウンヌンとともに、近親者にそんな罪人がいる皇子はちょっと……という側面もあったのではないでしょうか?

しかし、後水尾はこの処分に激怒し、退位を口にして幕府を脅迫しました。

そして、20年後、今度は紫衣事件で、自分の思いどおりにいかないことに怒って、ついに退位してしまうのです。

ウィキの記述では、「和子は、気が強い夫・後水尾天皇と天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯だった」とマイルドに書いてありますが、和ちゃんのダンナは「気が強い」なんてレベルではない性格の悪い男だったのです


和ちゃん……ホントお疲れさまでした   



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