Hanana

人間界の端っこで生きる、もの知らずなくまの一時保管庫。美術館や散歩の途中で拾ったことをメモしています。

足立区郷土博物館「谷文晁と二人の文一 時代を超える絵師ファミリー」

2018-04-01 | Art

足立区郷土博物館 文化遺産調査企画展「谷文晁と二人の文一 時代を超える絵師ファミリー」

平成30年3月6日~から5月13日(前期は4月22日まで、後期は4月24日から。一部入れ替えあり)

谷文晁(1763~1841)は、作品を見る機会も多く、他の画家つながりでもその名前がよく出てくる。渡辺崋山、浦上玉堂、酒井抱一、亀田鵬斎(東博の日記)。老中・松平定信。そして画家でもある妻の幹々と妹の舜媖(実践女子大香雪記念館の日記)。おもしろい人は、おもしろい人を引き寄せてしまう。

でも、文晁の家庭については、幹々と舜媖のほかは何も知らなかった。

これは楽しみと、博物館に行ってフタを開けてみたら、妻・幹々、跡継ぎの文一と、家族が若くして次々先だってしまう文晁の悲しみ。思いもかけない谷家のゆくすえ。幹々、文一の絵が素晴らしいだけに余計に意外。

そして今回は、文晁を取り巻く文人ネットワークを、文晁が暮らした下町エリアに見る展覧会でもある。展示品も足立区の千住近辺の個人蔵のものが多い。全国区の美術展では多分出てこない商家や文人も取り上げられていて、当時の千住宿のにぎわいが見える(とにかく呑んでる)。

文晁の弟子である地元足立区の豪農・船津家の資料は、今回が初公開。武士や豪商だけでなく、豪農にも絵つながりがあったとは。江戸市中だけでなく、近郊とのつながりも、興味深かった。国立の名主・村医師の本田家の資料も初公開。

家族や地元の日常感があって、面白い展示だった。地域の博物館ならではの文晁展だったと思う。

 

構成は(一部を除き撮影可)

一章:文晁夫妻と谷家

二章:谷家と落款印章

三章:谷家と門人の画業ー文晁から二世文一へー

一章:文晁夫妻と谷家

谷家は、祖父の時代から田安藩に仕え、文晁も26歳の時から仕官する。1792年には、田安家に生まれ白川藩主となった松平定信に仕えるよう命じられる。谷家は文学や学問に力を入れ、文晁の二人の妹も画に長けた。弟の元旦は、幕府の蝦夷調査に同行し、現地の様子を書き残した。

こうして見ると、今とあまり地形が変わっていない。googleでは、上野の寛永寺をはさんで、文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著「亀田鵬斎と江戸化政期の文人達」には、現在の台東区根岸3丁目13付近とある)。この本によると、文晁・亀田鵬斎・抱一の<下谷三人組>は、実に気が合って、連れだってあちこちに出没しているらしい。

谷家の菩提寺は、地図の真ん中あたり、東上野の源空寺。

文晁と幹々のお墓は、現存しているものの、関東大震災と太平洋戦争によって大きく破損してしまう。幹々のお墓は碑文も読めなくなってしまっていたのを、今回発見された「船津家」伝来の拓本↓によって知ることができる。船津家由来の資料は、多くの貴重な情報を提供していた。

「谷幹々墓碑 拓本」1800 お墓の画は、文晁自ら幹々の姿を描いたもの。

16歳で嫁いできた従妹の幹々は、30歳で先立ってしまう。かわいらしく描かれた姿には、文晁の愛情と寂しさがにじんでいるような。

 

このあと見た、幹々と文晁の合作がまた泣ける涙涙。これも船津家伝来。

谷文晁・幹々「二聖図」天明~寛政 

人物を幹々が、あとから木を文晁が描いたらしい。紙を貼り継いだ下書きのようだけれど、肌は柔らかく着色してある。孔子が抱く赤ちゃんを、釈迦が優しく見つめている。

って、どちらも我が子を見る父と母の顔だ。どうしたって孔子は文晁、釈迦は幹々、赤ちゃんは二人の一人娘のお宣にしか見えない。

 幹々の衣文線はやわらかく、手足や赤ちゃんの肉付きはふっくら。こんなに仲睦まじく夫婦と子三人の愛情を描きだした絵を、この時代に他に見たことがあっただろうかと思う。このまなざし。早くに子供を残して亡くなる幹々を思うと、いっそうなんとも・・。

 *

二章:谷家と落款印章

船津家に伝来した、谷家の落款の実物と、陰影。

上記の地図にも出ている船津文渕は文晁の弟子であり、二世文一(文晁の娘・お宣と、跡継ぎとして文晁が養子にした文一との子)とは親しく付きあいがあった。文渕が文晁の模写をした縮図帳には、巻末に文晁の落款が57種おしてあり、材質もメモ書きしていあった。

文晁のカエルの落款(印文:江東文晁之印)は、皮膚のぶつぶつまで表現した凝ったもの。

「VOGUE」と彫られたカエデ型の落款は、なぜフランス語?。これは文渕の印。

文一印のは、「ちふん」という、しゃちほこのもとになった神獣。かわいいなあ。

 よく知らなかったけれど、落款の世界って奥深い。舜媖は篆刻師に嫁いでいるし。文晁は100もの落款をもっていたそうだけど、有名人の文晁にプレゼントするひとが多かったそう。

 

国立市谷保の名主・本田家由来の「酒仏摺物」は、賛が亀田鵬斎、千住の坂川屋鯉隠、太田南畝、画が文晁。 皆、上の地図に載っているメンバー。

 

本田昂斎は、下谷の書家・市河米庵の門人。郷士格で唯一入門を許され、漢詩の菊池五山にも入門した、たいへん優秀な人物であったそう。国立からは40キロあるけど、本田家は以降も地域の文化の発展に寄与したそう。

そういえば、岡本秋暉や北斎の肉筆浮世絵などの貸出出品でよく目にする摘水軒記念文化振興財団も千葉県柏市の名主だった。亀田鵬斎も訪れたそう。文晁も訪れただろうか。

江戸後期には、美術や書芸が豪商だけでなく、近郊の豪農にまで広がっていたのは興味深かった。

三章:谷家と門人の画業ー文晁から二世文一へー

文晁と、息子や孫、門人の掛け軸や屏風が展示されている。

やっぱり文晁は達筆。定信のお供をした相模の国の記録図のような西洋感覚あふれるものから、狩野派、文人画、戯画?までなんでも描けてしまう。文晁は、10歳頃から狩野派の加藤文麗に、17,8歳頃からは南画の渡辺玄対に学ぶ。渡辺玄対は、南蘋派から南宋北宋の折衷した明末期の画まで広く学んだ。文晁の画域の広さも納得。

谷文晁「前赤壁之図」1826

 

本田家伝来の以下3点はたいへんお気に入りどれもリラックスモードなのだ。(3点とも画像は図録(400円😊)から)

 「江戸名家書画帳」は、1816年に本田家を文人たちが訪れた時と、同年に本田昴斎が江戸に出た際に、書いてもらった書画を冊子にした、本田家の宝。冒頭を飾るのが、鵬斎の4行書と文晁の花卉図。

花は風に激しく煽られつつも、強くしっかり。呼応するように、鵬斎の字もここでは硬質。二人とも、即興で描いたライブ感。

 

谷文晁「山水図」は、ほとんど抽象。頭の中の印象を、自由に紙の上に置いた感じ。たっぷりと水分を含んだ、墨の濃淡の点描の抽象のような草むら。遠景には薄い墨でざ~っとかすれのままに引き下ろした高山。そこにまた濃い墨で点々と、木を置く。文晁は、文化年間の後半から、墨調を重視する傾向にあったと解説に。この肩肘張った感じが全くないのは、本田家に逗留した際に描かれたものではないかとある。

 

谷文晁「亀図」も、ゆったり感。

たっぷり水を含んだ甲羅ににじみで亀甲模様が。眠そうな顔がいいなあ。足やしっぽは擦れた墨でしっかり描いてあり、サインもそのついでにしゅんっとはねて書いたような。

どちらの作もゆったり。本田家は文晁にとって、気の置けない友のような存在だったのではないかな。

 

この章で最も印象深かったのは、文一の画。

文一は、1787年に宮津藩の藩医の家に生まれ、少なくとも15歳ころには文晁のもとで画を学んでいた。文晁は、優れた画才を発揮する文一を後継者にと望み、一人娘の宣の婿に迎える。しかし、文一は病を得て32歳で世を去ってしまう。

谷文一「双鶏図」

 外隈で上にさっと輪郭を取られた鶏と雛。存在感あるなあ。線は迷いもなく熟達しており、一方では若いからこそなのか清新な感じ。

もたつかない筆がステキ。

 

谷文一「双鶏図屏風」 足立区千住の個人蔵。

おお、男らしいなあ。雨が斜めに吹き付けている中、強さと激しさが円の中に込められている。

母子は穏やかな空気のなかに描かれている。地を活かして、最小限の輪郭だけで生まれたヒナに感動。ヒナの軽さも、黄色くて柔らかい感じもわかる。かわいいなあ。

 

意だけを表した勢いある笹。左隻の蔦の葉も同様。

 かと思うと、繊細な都わすれやつゆ草。かすかなピンクやブルー。

ざっと激しくも繊細。荒い筆でも粗暴にならず、余計なものをそぎ落としているのもかっこいい。

ひよこなどは、ものを立体的に捉えているようにみえて、文人画というよりも円山派のようなのが不思議だった。次の画の、滝の水の表現などは、応挙!?と思ったほど。そのはずで、文一は応挙の弟子の渡辺南岳に学んだとのこと。文晁の指示もあったそう。自分の画風に固執しないで、いいものは弟子に学ばせる文晁、エライ。

文一「日光霧降瀑布図」 これは千住旭町の個人蔵。

山肌よりもむしろ、水の実感がすごい。ダイナミックでとても爽快。人物は、当然だけど日光なので日本人の装束だ。

 

文一の作品は、文人画の世界に円山派の写実が加わって、なんだか新しい感じ。若々しくて今見ても古臭さが感じられない。知的で適度な余裕があって粋な感じ。いい男だったんだろうなあ。文晁は見る目がある。

文晁は10代のころからいろいろな場に文一を同席させ、合作も手掛けた。酒席にも連れまわしている。ほんとにかわいがっていたのでしょう。

「高陽闘飲図」は、1815年に千住の飛脚問屋の主人の還暦祝いに、酒豪たちが集った大酒会の記念に仕立てた絵巻。鵬斎、抱一、太田南畝、文晁、文一も参加した。この絵巻の一部を、文晁・文一も担当している。

飲み会なんだけど、文雅な催しでもあったそうで、確かに正装して、食い入るように真剣。。抱一など他の部分も見てみたいもの。

この3年後、1818年に32才で文一は亡くなる。

文一は、文晁周辺の文人や旦那衆にも愛されたそう。文一の墓碑は、鵬斎が描き、法要の際の文一の真像は、文晁が描いた。妻に続いて、かわいがっていた跡取りの法要まで執り行うことになるとは。

その下書きと拓本が、船津家に伝わっている。

 鵬斎の碑文からも、皆に愛された若い文一の人柄や才能が偲ばれる。

 

そして、文一の息子・二世文一へ展示は移る。

5歳で父を亡くした二世文一は、文晁から画を学ぶ。縮画帳や、模写(文晁の山水、応挙の軍鶏図、沈 南蘋の花鳥、狩野派風の鷹など)が並んでいた。全て船津家所蔵。狸図だけは写生と見られ、毛並みまで観察している。二世文一が広く学んだことがうかがわれる。

それからがちょっとびっくり、宮津藩に出仕した文一の石高は、中下級の武士並みの待遇(岩佐又兵衛の子も薄給だったけれども、画の大家の二世だからと言って厚遇されないのかな)。

さらには、1860年には47才にして万延遣米使節団の一員としてアメリカにわたる。その姿はJapanese Paintertとしてアメリカの新聞にも載った。「水分を含んだ筆」でさささっと全てのものをスケッチする彼の腕は、アメリカ人記者にも感嘆されている。二世文一のスケッチは、アメリカの印刷物に載った初めてのJapanese Artになったと紹介されている。

今回は二世文一の本画は展示されていなかった。これらの模写やアメリカ滞在の先に、彼がどういう画を描いたのかはまだわからない部分が多いのだそう。今後発見されることもあるだろうか。

 

文晁の亡き後、田安藩士としての谷家の家督を継いだのは、文晁と再婚した妻との間の息子・文二。が、彼も1850年、39歳にして亡くなってしまう。画は父・文晁に学ぶも、数段劣ると言われたらしい。

文二の後を、文二の子・文五郎が継ぐけれど文五郎も早世。よって、一世文一の次男・文中が、文五郎の養子に入る形であとを継ぐ。”文”だらけ

 

結局、文晁一家や門人で暮らした画塾・写山楼は、文晁亡き後、早々に四散し、谷家としては途絶える。船津家、本田家が今も続いているのと対照的な気もする。

最後に門人たちの絵も展示されていたけれども、決まった画風がなくそれぞれ違った印象だった。文晁のおおらかで自由を許す指導が、その原因なのかもしれない。工房のように画風を統一し顧客を獲得して注文を受けるような画塾ではなかったのだろう。

文晁の門人たちも、それぞれの道を歩み、幕末の激変の中に投じられることとなる。

 

常設展でも、このあたりの変化が紹介されている。足立の農業から、昭和の懐かしい文化まで、とても充実した展示だった。

この博物館、日本庭園もゆったり、前は葛西上水に沿って長~~く続く満開の桜並木。こんないいところを今まで知らなかったなんてっ。

 

少ないけれど、グッズも売られている。江戸系のミニファイル(100円!)やシールがけっこうツボだったりする。狩野常信(伝)の百獣図シールを買ってご満悦😊。

後期には、文一の「虎図」や酒井抱一が展示される。また行かねば。(バスも便利ですが、無料駐車場も数台分あるので助かります。)

 

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