帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 紀貫之(七)

2014-05-26 00:13:46 | 古典

    



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 紀貫之 十首 ()


 こぬ人をしたに待ちつゝ久かたの 月をあはれといはぬ夜ぞなき

 (来ぬ人を心の内に待ちつづけ、久方の空の月を、哀れと言わない夜など無い……来ぬ男を、下心に待ちながら、久堅のつき人おとこを、愛しいと言わない夜なんて無く・泣く)

 

 言の戯れと言の心

 「下に…心の内で…身の下で」「ひさかたの…枕詞…久方の…久堅の(万葉集の歌詞にある、字義は久しく堅い)」「月…大空の月…月人壮士(万葉集の歌詞にある)…つき人をとこ…男…突き…尽き…万葉集以前の月の別名は、ささらえをとこ」「あはれ…哀れ…情趣を感じる…慕わしい…愛しい」「なき…なく…無く…泣く」


 
 歌の「清げな姿」は、恋人の訪れを待つ女に成り代わって詠んだ心情。男の想像する女の情況か。「心におかしきところ」は、久しぶりに逢い合った女の実況。男の妄想する女の情態か。これらは、言の戯れと言の心を心得ると聞こえる。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


帯とけの三十六人撰 紀貫之 (六)

2014-05-24 00:08:28 | 古典

    



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。
  公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 紀貫之 十首 ()

 桜ちる木のした風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける

 (桜散る木の下風は寒くはなくて、空には知られない雪が、降ったことよ……咲きて散る、男木の下枝の心風あつくて、大空では知られない白ゆきがふることよ)


 言の戯れと言の心

 「さくら…桜…木の花…男花」「木の下…男の下…おとこ」「風…桜を散らす風…春風…心風」「寒むからで…寒くなくて…暖かくて…熱くもえて」「ゆき…雪…逝き…おとこ白ゆき…おとこの情念…おとこの魂」

 


 歌の清げな姿は、季節外れの雪に見立てた桜の花びらが春風に舞い散る様。心におかしきところは、春情に熱くもえておとこ白ゆきふるありさま。

 


 今の人々には、たぶん受け入れ難い、上のような「言の戯れと言の心」を心得れば、古今和歌集の歌の「清げな姿」だけでなく「心におかしきところ」が聞こえる。


  古今集 春歌下       承均法師

 さくらちる花のところは春ながら雪ぞふりつつ消えがてにする   

 (……咲きてちる、おとこ花のところは張るながら、白ゆき降りつつ、煩悩・消え難くする)


  古今集 春歌下        素性法師
 花ちらす風の宿りは誰か知る 我に教えよゆきてうらみむ      

 (……おとこ花散らす心風の宿は誰が知っているか、我に教えよ、ゆきて恨みごと言ってやる)


 両歌とも、桜の散るのを見て詠んだ歌。清げな姿は字義の通り聞けば聞こえる。


 

 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


帯とけの三十六人撰 紀貫之 (五)

2014-05-23 00:02:28 | 古典

    



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 紀貫之 十首 ()

 みる人もなくて散りぬる奥山の もみぢは夜の錦なりけり

 (見物する人もないまま、散ってしまった奥山の紅葉は、闇夜の錦織だったのだなあ……見る女もなくて、散ってしまった奥山の、飽き色は、何の効もない・夜の錦だそうだ)


 言の戯れと言の心

 「見…物見…見物…覯…媾…まぐあい」「人…人々…女」「ぬる…ぬ…自然にそうなってしまった意を表す」「奥山…人里遠く離れた山…仏道修行などで入る山」「もみぢは…紅葉黄葉…秋色…飽き色…おとこの飽き色」「夜の錦…甲斐のないもの…無駄なもの…効果のないもの」「なり…断定の意を表す」「けり…詠嘆する意を表す…直接経験していない事を伝聞として表す…(修行中の僧は)そうなのだそうだ」

 

 

古今集秋歌下の詞書によると、北山に紅葉狩りに行ったときに詠んだ歌で、歌の清げな姿は、紅葉の散り果てた景色。心におかしきところは、修行中の僧の心とは別物のおとこのありさま。


 

 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


帯とけの三十六人撰 紀貫之 (四)

2014-05-22 00:08:36 | 古典

     



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 紀貫之 十首 ()


 夏の夜のふすかとすれば郭公 鳴くひと声に明くるしのゝめ

 (夏の短夜が、臥すかとすれば、ほとゝぎす鳴く一声に、明けゆく東雲……懐つの夜の臥すかとすれば、且つ乞う、泣く人声に飽くる、しのの女)



 言の戯れと言の心

 「なつ…夏…短夜…懐つ…撫つ」「ふす…臥す…寝る…伏す…ものが折れ伏す」「郭公…ほととぎす…初夏の鳥…カッコウ鳥…且つ乞う鳥…なおも又と乞う女」「鳥…女」「鳴く…泣く」「ひと声…一声…人声…女声」「あくる…(夜が)明ける…(期限などが)明ける…飽くる」「しののめ…東雲…東の天空…しのの女」「しの…しっとり…しんなり…頻り…とどめない」「め…女」「東…春」「雲…煩わしいほど心に湧き立つもの…煩悩」

 


 歌の「清げな姿」は初夏の短夜の景色。「心におかしきところ」は、なつの夜明けを迎えた男と女の有様。


 この歌は、古今和歌集巻第三 夏歌にある。江戸時代以来の学門的解釈は、初夏の夜明けの東の空の景色とする。そのような単音で調べを奏でるだけの歌に満足できるような、一義な歌の段階ではもはやない。柿本人麻呂以来、心をくすぐるような低音が、もう一方の手で必ず奏でられ協和していたのである。

その協和音が聞こえるのは「歌の様を知り、言の心を得たらむ人」である。そうすれば「大空の月を仰ぎ見るがごとく、いにしへを仰ぎて、今を(この時代の歌を)恋ざらめかも」と貫之は言う。これが仮名序の結びである。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


帯とけの三十六人撰 紀貫之 (三)

2014-05-21 00:09:18 | 古典

    



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 紀貫之 十首 ()


 花も皆散りぬる宿は行く春の ふるさとゝこそ成りぬべらなれ

 (花もみな散ってしまった宿は、行く季節の春の、故郷と成ってしまったようだな……お花も、め花も果ててしまったや門は、逝くはるの、ふるさとと、なってしまったようだな)


 言の戯れと言の心

 「花…梅・桜…男花…おとこ花…春の草花…女花…おんなの盛り」「宿…女…や門」「ゆく…行く…季節が移る…逝く」「春…季節の春…青春…春情…張る」「ふるさと…故郷(生まれた所)…古里(古くから馴染みのところ)…古妻…古さ門」「里…女…さ門」「さ…接頭語…美称」「と…門…女」「べらなれ…べらなり…する様子だ…のようだ…推量の意を表す」



 歌の清げな姿は、季節の春の終わりの景色。「心におかしきところ」は、男と女の春情も張るものも、果ててしまった気色。この二重構造が「歌の様(歌の表現様式)」である。


 

 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。