帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(130)おしめどもとどまらなくに春霞

2017-01-21 19:06:23 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下130

 

春を惜しみてよめる           元方

おしめどもとどまらなくに春霞 帰道にしたちぬとおもへば

季節の春の去るのを惜しんで詠んだと思われる・歌……張るの絶えるのを惜しんで詠んだらしい・歌。 もとかた

(惜しんでも留まらないのだからなあ、春霞、帰る路にも立った・帰路に出立した、と思われるので……お肢めども・惜しんでも止まらないのになあ、春情が澄み・張るが済み、返る路に絶ってしまったと思われるので)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「おしめども…お肢めども…おとこおんなども…をしめども…惜しんでも」「おし…男肢…おとこ」「め…女…おんな」「ども…両者よ…けれども」「とどまらなくに…止まらないのだから…留まらないのに」「なくに…ないのだなあ…ないのになあ」「春霞…はるがすみ…春情が澄み…張るが済み」「帰道…春が帰り去る道…張るが返る路」「道…路…通い路…おんな」「たち…立ち…出立ち…断ち…絶ち」「ぬ…完了したことを表す」「思えば…思われるので」。

 

惜しめども留まらない・春なのに、春霞・春が済み、帰路に出立してしまったと思われるので。――歌の清げな姿。

お肢めども・諦めろ、はるは済み、通い路にて返ろうとして、惜しくも絶えてしまったと思えるので。――心におかしきところ。

 

在原元方は、巻頭の一首で、立春の日が十二月中に来たことに対する少年らしい理屈を「清げな姿」にして、それにこと付けて、少年が大人の男になる前夜の途惑いとはやる心を表出した。ここでは、春霞に包むようにして、大人の性愛における暮れゆく春情と張るものについて詠んだ。

 

和歌は人のほんとうの心を表現する文藝である。その生々しさを「春の清げな風情」に包んである歌、言い換えれば、春の「清げな姿」に付けられてある歌が、春歌上下の巻に収められてある。

仮名序の冒頭の言葉「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思うことを、見る物、聞くものに付けて、言い出せるなり」も、歌を正当に聞き取れれば、正当に理解できるだろう。

「こと…出来事…言葉」「わざ…行為…業(ごう)」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による