帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(103)霞立つ春の山辺はとをけれど

2016-12-19 19:27:35 | 古典

             

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下103

 

(寛平御時后宮歌合の歌)          在原元方

霞立つ春の山辺はとをけれど 吹きくる風は花の香ぞする

 在原元方(業平の孫・巻頭の一首の作者)

(霞たちこめる春の山辺は、遠いけれど、吹きくる風は、梅かな・花の香りがすることよ……彼済み、たつ山ば辺りは、遠を・門を、けれど、吹きくる風はおとこ花の香がすることよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「霞…かすみ…彼済み…あれ済んで」「たつ…接頭語…たちのぼる…たちこめる…立つ…絶つ」「春…季節の春…春情…はる…張る」「山…ものの山ば」「とをけれど…とほけれど…遠いけれど…距離が離れたけれど…時間が経過したけれど…(実は)門をだけれど」「と…門…おんな」「ほ…を…お…おとこ」「花…木の花…男花…おとこの花」「香…梅の花の香…おとこ花の香」「ぞ…(香を)強く指示する」「する…生じている……『す』の連体形、体言が省略された体言止め。余韻がある」

 

春霞立つ山辺の木の花、吹きくる風、花の香、春の風情。――歌の清げな姿。

あれが済み、春情の山ば辺りより、実は・門とをだけれど、吹きくる風はおとこ花の香ぞする。――心におかしきところ。

 

元方の巻頭の一首は、少年の心に初めて訪れた春の情に、とまどう心と、はやる心を詠んだ歌であった。

この歌は、大人の男が詠んだエロス(性愛・生の本能)である。歌合に居合わせた女たちは、「艶なるかな」「あはれ」と、歌を味わい楽しんだだろう。

 

この歌合で、この歌を左歌にして、合わされた右歌は

天の原春はことにも見ゆるかな 雲の立てるも色濃かりけり

(天の原、季節の・春は、殊にすばらしく見えることよ、雲のわき立つのも、草木の花の色彩を映してかな・色濃いなあ……吾女の腹、春情は、格別のものに見えることよ、雲の・色情の、わきたつのも、色濃かったなあ)

 

「天…あま…吾女…吾妻」「原…腹…心のうち」「春…季節の春…春情」「雲…天の雲…心に煩わしくもわきたつ情欲など…広くは煩悩」「色…色彩…色情」。

 

この両歌の春の風情は歌の「清げな姿」である。歌の真髄は性愛の果て方の色情にある。

 

「寛平御時后宮歌合」の開催情況はわからないが、想像するに、主催者は宇多天皇の御母宮、左右の方人は、内親王を筆頭に女房たち、出席者は女御・女房・女官・女蔵人ら女たちのみ。歌の優劣は判定しないので判者無し、歌人は与えられた題の歌をあらかじめ提出し出席無し、女達の為の、女達による、文芸作品(和歌)の読み上げは、「心におかしきところ」を享受して、大人の女たちの驚きと共感の交歓である。楽しい場であっただろう。

 

「古今和歌集」は、このような「歌合」の歌々を、先ず核として編集されてあることが、次第に明らかになるだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

(寛平御時后宮歌合の原文は、日本古典文学全集による)