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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (227)
僧正遍昭がもとに、奈良へまかりける時に、男山にて女郎花を
見てよめる。 布留今道
をみなへし憂しと見つゝぞ行きすぐる おとこやまにし立てりとおもへば
僧正遍昭の許に、奈良へ出かけた時に、男山(石清水八幡宮のある人の集う所)にて、女郎花を見て詠んだと思われる・歌……僧正遍昭の許に、奈良へ出かけた時に、おとこの山ばにて、をみな部を見て、詠んだらしい・歌。 ふるのはるみち(三河の介)
(女郎花・おみな部し・年中春のもの売る女ども、苦々しいと見ながら、行き過ぎる、男山という所に、立っていたと思えば……をみな圧した、その後・いやな思いで行き過ぎる、わがおとこ、山ばで、勇み・立ってしまったと思えば)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「をみなへし…女郎花…草花の名…名は戯れる、をみな圧し・女犯し、をみな部し・女の群れ・年中春のもの売る女ども」「し…強調…き(の連体形)…完了したことを表す」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「男山…所の名…八幡宮の宮前の町・通行の要所で人の集う所…おとこの山ば」「たてり…立った…勇み立ってしまった」「り…完了した意を表す」。
女郎花、苦々しいと見ながら、行き過ぎる、男山に立っていたと思えば。――歌の清げな姿。
をみな圧してしまった、苦々しいと見て行き過ぎる、わがおとこ、山ばに勇み立ってしまったと思えば。――心におかしきところ。
おとこの、無分別で直情的性(さが)を、憂しと思う男の歌のようである。圧したをみなは、年中春のもの売る女。
春のもの売る女については、紀貫之「土佐日記」に次のような記述がある。 東の方に「八幡宮」が見える、拝み奉る。二月十八日、山崎(淀川隔てて男山の対岸)の様子は、四年前と変わっていなかった。「売り人の心をぞしらぬ(春売る女どもの気が知れない)」と一行の者が言う。「かならずしも、あるまじきわざなり(この世に・必ずしもあるべきでない、わざ(職業)である)」。「これにも返りごとす(こんなことにも返礼す・代金を払う)という。
土佐日記の記述は、和歌と同じ文脈にある。表現に清げな姿有り、ほんとうに言いたい事も、聞き耳あれば聞こえるように記されてある。うわのそら読みしては、土佐日記を読んでないのと同じである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)。(227)(228)、前後しましたが当方の投稿ミスで他意はありません。