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日本の海で36時間漂流した中国人女性の手記 レコードチャイナより

2024年07月18日 | 旅行

ネットのレコード・チャイナ記事で

伊豆から千葉まで36時間漂流し、

奇跡的に助かった女性の

手記を見つけました。

これ探していた記事でした。

危機管理の教訓だから。

参考になると思う。彼女冷静だった。

以下その記事。

1から23まで番号付けました。

長いので。

女性は今月8日午後7時半ごろに下田市白浜で海に入って遊んでいたがその後行方が分からなくなり、知人から通報を受けた警察や消防などが捜索。10日午前8時ごろにおよそ80キロ離れた千葉県沖で発見され、無事救助された。

 

以下は女性による回想の要約だ。(長いので番号こちらで付けました。1-23)

 

1 私は今年21歳。四川省成都市で育ちました。今大学3年生です。子どもの頃に遠出をした経験がなかったので、大学生になってからあちこちに行きたいと思っていました。旅行に行くお金は毎回アルバイトで稼いで、今回の日本旅行もそうでした。日本を選んだのは、宮崎駿のアニメや東野圭吾の小説が好きだったのと、バブル経済後の日本社会がどのような様子なのかを知りたかったからです。

 

2 東京、箱根、伊豆に行くつもりでしたが、具体的な予定は立てていませんでした。私は内陸育ちだったので、日本に着いてまず初めに海を見に行きました。海岸では海の流れなど危険は感じていませんでしたが、振り返ってみると海を漂流したあの夜は本当に想定が甘かったと思います。私は(海で浮いている時に)ずっと1カ所にとどまるものだと思っていて、まさか波に巻き込まれて流されるとは思ってもいませんでした。日中の海は静かでも、夜は潮の関係で波が大きくなるようです。

 

3 初めは海岸沿いを流されていて海辺に店舗や街灯の明かりがうっすらと見えました。その明かりは時間と共に弱くなっていき、私が気にする範囲も岸から自分の周囲へと変わっていきました。

 

4 周囲の波は2~3、3~4メートルくらいの高さで、聞こえるのは波の音だけ。その音は睡眠用の波の音声とは違い、海の底に沈むような感覚を抱かせるものでした。ゲーム「原神」のキャラクターのフリーナのセリフのように「あとどのくらい?」と何度もつぶやきました。その時は自分がとてもちっぽけで、浮き輪の中でどんなにあがいても意味がないと感じていました。

 

5 波にたたかれて舞い上がったしょっぱくて苦い海水が何度も口の中に入ってきます。喉は乾いていましたが、海水は飲んではいけないというのを知っていたので毎回吐き出しました。体力を温存して、できるだけ眠らないよう意識しました。いろんな体勢を試し、波が来る方向に背を向ければ顔に当たるのを減らすことができると気付きました。

 

6 夜寒い中で水につかっているとますます虚脱していくため、頭を浮き輪にもたげるなど海水との接触を減らそうと試みましたが、危険だと分かりやめました。結局、最善の姿勢は両脇に浮き輪を挟んでいることでした。

 

7 その場にとどまることができない状況でどのように発見されるのか。いっそ死んだ方がいいのでは、と絶望したこともありました。頭を海に沈めて自分を窒息させようともしました。でも、あっさり死ぬことはできないのだと気付きました。

 

8 自分が海の底に沈んで体全体がむくみ、海底生物に飲み込まれるのを想像し、そうはなりたくないと思いました。このまま死んだら、家族や友人は私がまだ死んでいなくてどこかの島に流れ着いて生きているのではないかと思い続けることになる。それは彼らにとって残酷すぎると思ったのです。

 

9 9日明け方、岸に明かりはもう見えず、右側は全て山になり、風力発電の風車が見えました。山の方に行けるかと思いましたが、波は私を沖の方へと押していきました。昼頃には、四方にまったく山は見えなくなりました。海しかないはずの左側に目を向けると建物が見え、それもすぐ近くにあるように感じました。しかしそれは、私が生まれて初めて見た蜃気楼(しんきろう)でした。

 

10 すると、油のようなにおいがして、3艘(そう)の小型船が見えました。私はそのうちの1艘に向かって大声で助けを求めました。距離は20メートルもありませんでしたが、彼らは私の声が全く聞こえないようでした。3艘はそれぞれ異なる場所で30分ほど停留し、それからまた場所を変えていました。何度叫んでも反応がなく、サンプル調査の無人船か何かかと思いました。

 

11 助けられずにがっかりしましたが、船が来るということは自分はまだ日本近海にいてそんなに遠くには流されていないのだと考えました。太平洋の方に流されたら、絶対に見つからない。漂流中に2隻の大型タンカーも見ましたが、あまりに大きすぎて助けを呼んでも誰にも聞こえないだろうと思いました。

 

12 ほどなくして、3艘の小型船が別の2艘の船を連れて戻ってきました。私は必死に“Help”と叫び続け、足をバタバタと動かして波を立てて自分が死体ではないことをアピールしました。船は20分ほど止まってからまた去ってしまいました。私を助けに来た船かどうかは分かりませんが、きっとこの情報を伝えてくれるだろうと信じていました。

13 また夜になりました。周囲は闇に包まれて、また前夜の苦痛がやってくるのかと怖くなりました。その夜は波がさらに高く、昼間に海で拾ったほうきのような形状をした物体で波から顔を守りましたが、波に乗ってきたおそらくクラゲのような青い生物がその物体に巻き付き、私の左手の甲が刺されました。傷口が赤く腫れ、痛みを感じて怖くなりました。

 

14 その後、私の目の前に突然、一緒に旅行に来た友人が現れました。彼女は私に「なぜ船に向かって助けを呼ぶの?。バカね、横にバスがあるじゃない。それに乗ってここを離れればいいのよ」と言い、私に1足のスリッパを渡してきました。私はもう自分が地面に立っているような感覚を覚えましたが、浮き輪を取らなきゃと振り返ったところで、海水にむせて夢から覚めました。

 

15 日が昇り始めるところでした。体にはもうほとんど力が残っておらず、浮き輪だけが命綱だと意識しました。ですが、浮き輪すらしっかりとつかめず、腕は体を、首は頭を支えられなくなってきていました。私は、次に来る船が最後の望みだと思いました。身長158センチ、体重60キロ。過去に何度もダイエットをしてきましたがリバウンドを繰り返して悩んできました。でも、海の中では自分の脂肪に感謝しました。

 

16 目が覚めてからしばらくして、黄色い貨物船が目に入りました。それは初めて見た、船員が乗っている船でした。貨物船は止まりました。私は英語で「泳いで行けないので来てもらえませんか」と叫び、こちらに来るのに燃料がかかるのを嫌ってきてくれないのではないかと考え、船員に「お金は払います」とも声をかけました。でも、彼らはまだその場にとどまったままでした。

 

17 この船は30分してもその場を離れませんでした。続いて白い大型船がやってくるのが視界に入りました。船員は、泳いでそちらに向かうとジェスチャーで知らせてくれ、私は可能な限り彼らの指示に従いました。彼らは木製のはしごを用意し、救急用のオレンジ色の浮き輪とロープを下ろしてきました。当時力を使い果たしていたので、自力ではしごを上ることができませんでした。

 

18 年齢がやや高いベテラン風の船員が海に入り、私の状況を確認してから船に戻り、追加のロープを持ってきて私の脇の下に固定して、他の船員らと協力して引き揚げてくれました。船に上がって私が真っ先に発した言葉は、左手の甲を見せて「このクラゲに毒はあるか教えてもらえますか?」でした。

 

19 船員たちは大きな毛布で私をくるんでくれ、飲料水をくれました。寒さで震えて立つこともできませんでしたが、休んでいるうちに徐々に体力が回復しました。船員はみな男性でしたがとても親切にしてくれ、着替えや水、靴を用意し、髪の毛を乾かせる場所も教えてくれました。ある人は私のためにおかゆを炊いてくれましたが、海上保安部のヘリコプターが20分余りで迎えに来たため、残念ながら食べることはできませんでした。

 

20 あのベテラン船員は自分は医師だと言い、体温や心拍など簡単な検査をしてくれ、舌を確認して大丈夫だとOKサインをしました。また、「どのくらい漂流していたの?」と聞かれ「3日」と答えたら、彼は最初「3時間」と勘違いしました。慌てて訂正すると、とても驚いていました。船でもうすでに意識ははっきりしていて、船員と冗談を言ったりもしていました。自分のことを“Joy”だと自己紹介したベテラン船員は「中国人はすごい」と言って親指を立てました。

 

21 それからヘリコプターと救急車で病院に運ばれました。病院では一緒に旅行に来た友人と抱き合いました。会う人みんなから「あなたはとてもラッキーだ」と言われました。当時はまだ知りませんでしたが、私が行方不明になってから私の中学や高校、大学の友人たちがグループを作り、互いに知り合いではないのに協力して民間の救援隊を探すなど、私を見つけるために動いてくれていました。

 

22 みんなは奇跡だと言いますが、ちょっと大げさだと思います。元々は不慮の事故ですし、自分がうっかりしていたせいでもあります。私はいわゆる完全な被害者ではありません。私は死への恐怖と生への欲望によって危機を乗り越えることができました。多くの人が「自分なら3時間も耐えられない」と言いますが、みんな自分を過小評価していると思います。もし自分一人になったら、自分は強いと信じてみてください。

 

23 13日に帰国してから、両親は私にメンタルケアを受けさせようとしましたが、私の精神状態を見てその必要はないと思ったようです。なぜなら私が「まず泳げるようにならなきゃ」と言ったからです。

 

 

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