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出稼ぎその2

2021-11-28 | 農家 農村

 以前、出稼ぎという記事を書きました。今ではほとんど無くなった働き方です。これは、その当時でいう「出稼ぎ」という意味で、現在はどうなのか知りません。これを読んでくださる方は、「出稼ぎ」と聞いて、どんなふうにイメージするのでしょうか。

 

 農家は土地があるゆえに、そこに縛られます。良くも悪くも、です。雪の降らない、暖かい地域であれば、何かしら冬の作物栽培も可能でしょう。けれども、雪の多い地域では、現金収入につながる冬の作物栽培は、ほとんど考えられませんでした。

 ある程度の面積の田んぼがあれば何とか食べていけたものが、年々難しくなっていきました。農業の機械化、農村の近代化?と表裏一体だったのが、「出稼ぎ」の増大でした。詳しい数字は書きませんが、多くの農家が出稼ぎに出ました。

 

 「出稼ぎ」は、東北と九州の人たちが多かったと聞いています。暖かい地である九州からもというのは、子どもごころに意外な気がしましたが、雪が降らないだけで、農家の置かれた状況は、似たようなものだったのかもしれません。この辺ではあまり聞きませんでしたが、東北でも、田んぼがとても少ない地域では、通年出稼ぎということもあったようです。半年間の単身赴任どころか一年じゅう。それもずっと。ばらばらに暮らす家族のありようは、実にさまざまだったことでしょう。

 

 農地を捨て置けない。いや、農地は食べものを生み出してくれる大切な土です。その「土」に、「縛られている」などという意識を、どれほどの人が持っていたかは知る由もありません。というより、時には土に感謝し、時には土に縛られていることを恨み、時には土の恵みに幸福を感じ…。その他さまざまな感情が、その時々でいろんな割合で混ざり合っていたのではないかと思います。そしてそれはひとりひとりにより、さまざまだったと思うのです。

 

 農業の機械化がより進んで、お米作りは、一年を通じた仕事ではなくなりました。高齢化しても、重要な作業を機械がやってくれるのですから、ずっと続けられるようになりました。その分、息子など次の世代は、家にいる必要が無くなりました。就職することが可能となったのです(この頃のことではありません。40年以上も前の、ずいぶん前の話をしています)。学校を終わった時、家の農業を継ぐという人は、ほとんどいませんでした。家から通える勤め先に就職すれば、春秋の農繁期に少し休みを取って、作業を手伝うような形態が普通になったのです。普段は両親が農作業をやっていて、それで間に合っていたのです。

 この辺で、出稼ぎをした最も若い年代の人は、いまは60代後半くらいです。話を聞くと、学校を終えて数年間、という場合が多かったようです。若い時にいろいろやってみたい、という思いもあったことでしょう。家族と離れ離れというような悲壮感はなく、都会に行くことが楽しみだったのではないでしょうか。思い出話を楽しそうに話しているのを聞いた記憶があります。そして数年後には、お米作りと両立しやすい仕事先に、勤めたのでした。

 お米づくりが、子どもたちの手伝いを必要としなくなってから、かなりの年数が経ちます。よほど大きい農家であっても、そんな感じになって久しいです。農地を守っていかなければならないけれど、子どもに農業を継いでほしいとはとても言えないし、言えるような農業情勢でもありません。農家自らが、子どもには農業ではなく、安定した仕事に就いてもらいたいと思っているというのが、正直なところだと思います。

 

 農業がどんどん潰れていっても、目の前の食糧が無くなるなどということは、とりあえず起きていません。どんどん追いやられても、今の政治がおかしいんじゃないかなどという声も増えてきません。どちらも不思議ですが、そうなんです。でも、ある時何かが起こる。あはは、「何か」は、いつも起きていますね。

 

 結論のある話ではありません。何となく書いてみました。

 写真にはうまく写りませんでしたが、ほぼ中央のところに、オニヤンマの亡骸があります。おととい、車庫の中を掃除していたら、いたのです。よくもまぁ、こんなところに来てくれたのに、ここで死んでしまうことになったのかい。思わず、そうつぶやいてしまいました。ドウタンツツジの生垣の下に置いたのでした。

  今日は、久しぶりの青空でした。お寺の「報恩講」という行事に行ってきました。

 

 

 

 

 

 

 


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