風に吹かれて行こう

お米の便りを、写真でもっとわかりやすく!

記録に残らない日常が、いくつもありました。これからもそう

2021-10-29 | 農家 農村

 数日前の夕方、近所のお宅に行ってきました。冬の除雪について、少し話をしたり聞いたりしてきたのでした。

 それ以外の話もしたのですが、その中で飯米の話題が出て、この齢になって気づかされたことがありました。

 

 農家が新米を口にするのは、年を越してからのことが多いと思っていました。自家用の保有米は、緊急時のことを考えて、多めに確保しておくのが普通だと思っていたのです。

 緊急時とは、第一に冷害による不作のこと。いまでこそ、「冷夏」はまれとなりましたが、以前は今より多かったのです。その次に考えられることは、冠婚葬祭などによる突発的な人寄せです。人が集まれば、お米もその分多く消費されます。昔の人ほどお米を多く食べたのですから、それに備える必要もありました。毎年そんなふうに多めに確保するのですから、新米を食べるのが年明けどころか、春になってやっと、というようなこともあったと思われます。でもおそらく現在は、そこまでではないかと思われます。

 

 数日前まで、ずっとそんな認識でしたが、それがちょっとした話の中で覆されるとは、夢にも思いませんでした。

「父さん(私のことです)の家ではそうでなかったと思うけど、秋には現金がたくさん必要になるから、米の値段が安くなったりすると、自家用米が足りなくなるとわかっていても、売ってお金に換えてしまったんだよ」と言われたのです。

 

 目からうろこでした。昨日書いた「ウソではないけれど本当でもない」は、別のことについてだったのですが、まさにこのことも、自分のこれまでの認識が、ウソではないけれど本当でもないの、一例だったのでした。

 この言葉を聞いたあと、いろいろと考えたことや思い浮かんだことがありました。昭和初期の農村の疲弊。戦争への道。子どもの頃の暮らしの記憶。断片的な認識や記憶が、その言葉の周りに、少しずつ集まってきたような気がしました。聞いたからどうなる。聞かなかったからどうなるというようなことではないけれど、でも何かしら、忘れてはいけない言葉のひとつと思えてしかたがありませんでした。