そうして相談をしていると、ほどなく、またまたドロン、と音がして、白煙と共に、馬超が戻ってきた。
今度はさきほどよりも、さらに奇妙な姿である。髪は短髪、襟と感嘆するほどちいさな釦のつらなる衣に、首には奇妙に結ばれた紐があり、その上に濃紺の同じく襟と釦のある上着、上着と同じ色の筒衣を履いて、靴は、何枚もの皮を複雑に合成したことがわかるものである。
「おお、ばちょう、しんでしまうとはなにごとじゃ!」
「うるさい! 今度はなんだあれは! やたらと空気の濁ったぽおとぴあとかいう街に飛ばされたかと思えば、なぜおれが、こんな窮屈な格好で警吏の真似事をせねばならぬ! しかも、なんだって金貸しの家の地下に、あんな広大な迷宮があるのだ! 一般人が地下にあんな施設を作るな! 建築法に抵触するだろう! ん?……しないのか?」
「ほーう、するとおまえは、地下ダンジョンでリセットした口か」
すると、馬超は、壷中仙人から目をそらし、うめくように言う。
「こめいちごの意味が…こめいちごが判らぬ」
「米と苺」
てきとうに答える孔明に、馬超は、がっと顔を上げて、怒鳴るように言う。
「こういう頭を使うことは、あんたのほうが得意だろう! いますぐ行って、事件を解明してくれ!」
「行く必要はない。犯人はヤ○だ」
「適当なことを言うな! あいつはいままで俺のとなりに…」
「なんだ、知らなかったか。そんなの、一般常識だぞ」
なにより情を大切にし、裏切り行為や騙すことには疎い馬超は、孔明のことばに、打ちのめされたようである。
「なんと!」
「来年度の蜀の就職試験にでるぞ。というか、わたしが試験問題を作るので、出す予定だ」
「なんと…おれは中途採用で面接試験だけであったから勉強をしてこなかった。そのツケがこんなところで……で、岱は?」
「こめいちごのあたりで、やっぱり苦しんでいるのじゃないのか?」
すると、まるで呼び合うかのように、どろんと音がして、中から馬岱があらわれた。
「おお岱! 無事であったか!」
馬岱の顔は蒼ざめ、蹲ったまま、動こうとしない。その馬超よりずっと漢族に近い、意外に柔和な風貌をした青年を見て、そうか、こういう顔だったか、と孔明は納得し、虎の趙雲も納得した様子でうー、と唸っている。
「どうした? 怪我でも負ったか?」
真っ青な顔をした馬岱は、全身から搾り出すように、乾いた声をあげる。
「……ミシシッピーは……ムリ!」
「みししっぴ?」(著者注・FC黎明期に販売された「ミシシッピー殺人事件」は、いまもって最高難度をほこる推理ゲームです。ミシシッピー川を走航する豪華客船で起こった殺人事件を追う探偵がプレイヤーキャラとなります。というか、ある部屋に入っただけで、主人公にナイフがゆっくーーーーーーーり飛んできて、コントロール不能のまま、避けることも出来ずに死んだり、船内に理不尽に落とし穴があり、あっさり転落死したりする、プレイヤーを途方に暮れさせることでは、いまでも越える物のない伝説のゲームです)
みししっぴが何か知っているか、と孔明は趙雲に問いかけたが、虎の趙雲の顔には『よのなかひろい』と書いてあった。
「しかし、これで俺たちは試練を越えられなかったことになるのか…! 悲しいぞ、岱!」
「兄者―!」
そうしてふたりはがっしりと抱き合うのであるが、その暑苦しさ、なんとなく、例の三人組を彷彿とさせるものがある。
これはやはり、主公が来るべきだったのだ、と苦く思いつつ、孔明は馬岱に近づく。
公務では顔をあわせたことがあるが、私的には初対面である。
役職で呼ぶべきか(役職も覚えていないほど、馬岱は影が薄かった)、字をこちらから聞きだしてから本題に入ろうか、それとも?
「ええと、平西将軍の従弟どの」
親しみもあるし、礼儀にもかなっている。我ながら、よい選択だな、と孔明が得意がっていると、馬岱は、ぼそりと言った。
「馬岱です。」
「それは知っている」
「オレの字(あざな)がありません!」
「なかったのか!」
それならば、思いだせるはずもない。
しかし、馬岱はすでに三十を越しており、孔明より数年は年上にも見えるのに、いまだに字がない、などと、不遇もいいところである。
すると、馬岱と抱き合っていた馬超は、不機嫌そうに顔をしかめる。
「昔、おまえに俺が字をつけてやっただろう」
「馬岱です。」
「知ってるよ」
「それは字(あざな)じゃなくて、ただのあだ名です!」
「む、だめか? 類似(るいーじ)」
「類似? 字か、それ?」
さすがに孔明が馬岱に同情して尋ねると、馬超は不思議そうに首をひねりながら、言う。
「いまは全然ちがうのであるが、昔はこいつとよく顔が似ていたようで、みなに似ている、似ているといわれたのだ。だから、それをそのまま字にして贈ったのだ。親父殿も、これでよいと仰っていたので、そのままになっていたのだが、軍師将軍も、やはり渾名だと思われるか?」
「……あだ名だよ」
それを傍で聞いていた馬岱が、また顔をそむけたままで、ぼそりと言った。
「馬岱です。」
「もうよい。それより、聞きたいことがあるのだが、どうも話を聞くと、そなたと従兄殿は、べつべつに行動をとらされていたようだが、なにか変わったものを見聞きしなかったであろうか?」
「軍師との話が弾みません!」
「……見なかったのだな、わかった。さて、これからどうするか…」
「ところで、俺たちにばかり働かせて、貴殿らはなにをしていたのだ?」
不機嫌な馬超の問いに、孔明は、ちらりと壷中仙人を見て、それから、趙雲に、なんでもいいから気を逸らせるようにと合図すると、聞こえないように、自分が見聞きしたことを馬超に教えた。
「ふむ…すると、俺たちはアヤカシの胃袋の中、というわけか。ところであの虎、ずいぶん貴殿になついているようであるが、飼っておられるのか」
「ちがう、あれは」
子龍だ、と答えようとする直前、見ると趙雲は、がうがうと、野犬のように壷中仙人を威嚇して、何度も牙を剥いているのであった。
その牙から逃れるように、ひょい、ひょいと身をかわす仙人であるが、とうとうたまりかねたのか、ふたたび叫ぶ。
「ええい、うざったい虎めが、こうしてくれるわ、えい!」
ドロン、と白煙がたち、虎の趙雲の姿が掻き消えた。
仙人は勝ち誇って、哄笑をひびかせる。
「思い知ったか、生意気な虎めが!」
「貴様、今度はなにをした!」
孔明が血相をかえてやってきたのを見て、壷中仙人は、いやらしくも意地の悪い笑みをみせた。
「豆粒ほどの大きさに変えてやったのじゃ! これでもう怖くなんぞないわい!」
見ると、そのとおり、趙雲は親指の先ほどの大きさになって、それでもまだ、がうがうと吼え声を立て続けていた。
「子龍、なんというちっぽけな姿に…しかし、この大きさなら、引越しをせずとも、今の屋敷で飼えるかも! って、冗談だ、冗談! 噛むことないだろう!」
孔明は、両手で豆粒ほどになった趙雲をすくい上げると、仙人に尋ねた。
「貴殿の仙術には感服いたした」
そうであろう、というふうに、仙人は気をよくして胸を張る。
「これほどの術を扱われるのだ。おそらく相当な修行を積んだものと思われるが、いったいどこで修行をされたのです?」
「蜃都じゃ。そなたたち人間は、入ることすら出来ぬ都ぞ」
「たしか、大蛤の吐く息によって現れる、幻の都と聞きましたが、すると、仙人は海の出自か」
「いいや、儂は川辺にて住んでいた。水中にて長く生き、やがて水死した人間の肉を食して、知恵をつけたのが、わが前身よ」
得意げに肩を揺らせて笑う仙人に、孔明はにっこりと、敵国の使者と、ごくごく親しい者にしかみせない、極上のやさしげな笑みを浮かべた。
「人肉を食すとは恐ろしきことよ。なれば、さぞかし世人に恐れられ、ご尊名を轟かせたことでありましょう」
孔明の笑みにさらに気をよくした仙人は、白髯をしごきつつ、得々と語る。
「まったくじゃ。人は弱いものゆえ、わが名を口にすることすら恐れ、儂が姿を現しただけで、神と崇めて生贄を用意したほどじゃ。何せ、儂の口は人なんぞ一飲みであるからな。人は儂を見て、『猪婆龍が出た』と大騒ぎするのじゃ…って、しまったっ!」
「たわけめ、語るに落ちたな。そなたの真の名は『猪婆龍』! さあ、我らを現世に戻すがよいぞ!」
「くそう、儂の『男四人をひっ捕まえてたっぷり太らせておなかいっぱい作戦』が! ええ、いちばんの優男と思って、おまえを侮っておったわ!」
「今度から、現世のことをちゃんと調べてから、人を選ぶとよい。そうすれば、まさかわたしを選ぼうなどとは夢にも思わなかったであろうよ」
「ぬ…食糧に名前なんぞ要らぬと思うて聞いておらなかったな。そなたの名は?」
「諸葛孔明」
すると、仙人は、納得した、というふうに大きく肯いた。
「そうか、おまえがかの赤壁の戦いにおいて、怪しげな術にて風を呼び込み、曹操軍百万(主催者側発表数字)をすべて焼き殺したという、冥土の鬼も裸足で逃げ出す、灼熱地獄の仕掛け人!」
「やかましい! どうしてそこばかりが妙に大きくなって誤って伝わっているのだ! ともかく、さっさとすべてを元に戻せ! さもなくば、この世界も燃やすぞ!」
「バーベキューはいやじゃ! 約束であるから仕方がない! えこえこあざらく! 元に戻れ!」
ぼん、とひときわ大きな白煙があがったかと思うと、孔明と、手のひらの中の趙雲、そうして馬超と馬岱は、真っ白な視界に包まれた。
※
とぽん、と水音がして、『みんなウッカリ。本物の壷中』は、たちまち波に飲まれ、やがては見えなくなっていった。
「この壷中が一個だけだったとは思えない。もしかしたら、第二、第三の壷中が…」
つぶやく馬超に、孔明と、ちゃんと人間に戻ることのできた趙雲は、
「もういいよ」
と、さすがにうんざりして言った。
「ああ!」
馬超は、不意に目をかっ、と見開いて、悲痛な声をあげる。
「今度はなんだ!」
「しまった、あの壷を曹操の元に送りつけてやれば、復讐を完遂することができたかもしれないのに!」
「あきらめろ、とっくに水底ぞ!」
しかし馬超は大きく頭を振って、水面を睨みつける。
「我が一族の辞書に、あきらめるという言葉はない! 探しにいくぞ、岱! ふぁいとー!」
「いっぱーつ!」
どぶん、どぶん、と二つの大きな水音がして、近くで魚を釣っていた漁師たちが、迷惑そうにこちらを睨みつけてくる。
孔明は彼らに頭を下げると、ざぶざぶと元気に泳ぎだした馬兄弟を背に、傍らの、すっかり呆れている趙雲を促して、もう彼らとは二度と関わり合いになるまいと固く決意しつつ、帰路についたのであった。
そして、いまもって馬岱の字は決まっていない。
なんと! さらにまだつづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/06/07)
今度はさきほどよりも、さらに奇妙な姿である。髪は短髪、襟と感嘆するほどちいさな釦のつらなる衣に、首には奇妙に結ばれた紐があり、その上に濃紺の同じく襟と釦のある上着、上着と同じ色の筒衣を履いて、靴は、何枚もの皮を複雑に合成したことがわかるものである。
「おお、ばちょう、しんでしまうとはなにごとじゃ!」
「うるさい! 今度はなんだあれは! やたらと空気の濁ったぽおとぴあとかいう街に飛ばされたかと思えば、なぜおれが、こんな窮屈な格好で警吏の真似事をせねばならぬ! しかも、なんだって金貸しの家の地下に、あんな広大な迷宮があるのだ! 一般人が地下にあんな施設を作るな! 建築法に抵触するだろう! ん?……しないのか?」
「ほーう、するとおまえは、地下ダンジョンでリセットした口か」
すると、馬超は、壷中仙人から目をそらし、うめくように言う。
「こめいちごの意味が…こめいちごが判らぬ」
「米と苺」
てきとうに答える孔明に、馬超は、がっと顔を上げて、怒鳴るように言う。
「こういう頭を使うことは、あんたのほうが得意だろう! いますぐ行って、事件を解明してくれ!」
「行く必要はない。犯人はヤ○だ」
「適当なことを言うな! あいつはいままで俺のとなりに…」
「なんだ、知らなかったか。そんなの、一般常識だぞ」
なにより情を大切にし、裏切り行為や騙すことには疎い馬超は、孔明のことばに、打ちのめされたようである。
「なんと!」
「来年度の蜀の就職試験にでるぞ。というか、わたしが試験問題を作るので、出す予定だ」
「なんと…おれは中途採用で面接試験だけであったから勉強をしてこなかった。そのツケがこんなところで……で、岱は?」
「こめいちごのあたりで、やっぱり苦しんでいるのじゃないのか?」
すると、まるで呼び合うかのように、どろんと音がして、中から馬岱があらわれた。
「おお岱! 無事であったか!」
馬岱の顔は蒼ざめ、蹲ったまま、動こうとしない。その馬超よりずっと漢族に近い、意外に柔和な風貌をした青年を見て、そうか、こういう顔だったか、と孔明は納得し、虎の趙雲も納得した様子でうー、と唸っている。
「どうした? 怪我でも負ったか?」
真っ青な顔をした馬岱は、全身から搾り出すように、乾いた声をあげる。
「……ミシシッピーは……ムリ!」
「みししっぴ?」(著者注・FC黎明期に販売された「ミシシッピー殺人事件」は、いまもって最高難度をほこる推理ゲームです。ミシシッピー川を走航する豪華客船で起こった殺人事件を追う探偵がプレイヤーキャラとなります。というか、ある部屋に入っただけで、主人公にナイフがゆっくーーーーーーーり飛んできて、コントロール不能のまま、避けることも出来ずに死んだり、船内に理不尽に落とし穴があり、あっさり転落死したりする、プレイヤーを途方に暮れさせることでは、いまでも越える物のない伝説のゲームです)
みししっぴが何か知っているか、と孔明は趙雲に問いかけたが、虎の趙雲の顔には『よのなかひろい』と書いてあった。
「しかし、これで俺たちは試練を越えられなかったことになるのか…! 悲しいぞ、岱!」
「兄者―!」
そうしてふたりはがっしりと抱き合うのであるが、その暑苦しさ、なんとなく、例の三人組を彷彿とさせるものがある。
これはやはり、主公が来るべきだったのだ、と苦く思いつつ、孔明は馬岱に近づく。
公務では顔をあわせたことがあるが、私的には初対面である。
役職で呼ぶべきか(役職も覚えていないほど、馬岱は影が薄かった)、字をこちらから聞きだしてから本題に入ろうか、それとも?
「ええと、平西将軍の従弟どの」
親しみもあるし、礼儀にもかなっている。我ながら、よい選択だな、と孔明が得意がっていると、馬岱は、ぼそりと言った。
「馬岱です。」
「それは知っている」
「オレの字(あざな)がありません!」
「なかったのか!」
それならば、思いだせるはずもない。
しかし、馬岱はすでに三十を越しており、孔明より数年は年上にも見えるのに、いまだに字がない、などと、不遇もいいところである。
すると、馬岱と抱き合っていた馬超は、不機嫌そうに顔をしかめる。
「昔、おまえに俺が字をつけてやっただろう」
「馬岱です。」
「知ってるよ」
「それは字(あざな)じゃなくて、ただのあだ名です!」
「む、だめか? 類似(るいーじ)」
「類似? 字か、それ?」
さすがに孔明が馬岱に同情して尋ねると、馬超は不思議そうに首をひねりながら、言う。
「いまは全然ちがうのであるが、昔はこいつとよく顔が似ていたようで、みなに似ている、似ているといわれたのだ。だから、それをそのまま字にして贈ったのだ。親父殿も、これでよいと仰っていたので、そのままになっていたのだが、軍師将軍も、やはり渾名だと思われるか?」
「……あだ名だよ」
それを傍で聞いていた馬岱が、また顔をそむけたままで、ぼそりと言った。
「馬岱です。」
「もうよい。それより、聞きたいことがあるのだが、どうも話を聞くと、そなたと従兄殿は、べつべつに行動をとらされていたようだが、なにか変わったものを見聞きしなかったであろうか?」
「軍師との話が弾みません!」
「……見なかったのだな、わかった。さて、これからどうするか…」
「ところで、俺たちにばかり働かせて、貴殿らはなにをしていたのだ?」
不機嫌な馬超の問いに、孔明は、ちらりと壷中仙人を見て、それから、趙雲に、なんでもいいから気を逸らせるようにと合図すると、聞こえないように、自分が見聞きしたことを馬超に教えた。
「ふむ…すると、俺たちはアヤカシの胃袋の中、というわけか。ところであの虎、ずいぶん貴殿になついているようであるが、飼っておられるのか」
「ちがう、あれは」
子龍だ、と答えようとする直前、見ると趙雲は、がうがうと、野犬のように壷中仙人を威嚇して、何度も牙を剥いているのであった。
その牙から逃れるように、ひょい、ひょいと身をかわす仙人であるが、とうとうたまりかねたのか、ふたたび叫ぶ。
「ええい、うざったい虎めが、こうしてくれるわ、えい!」
ドロン、と白煙がたち、虎の趙雲の姿が掻き消えた。
仙人は勝ち誇って、哄笑をひびかせる。
「思い知ったか、生意気な虎めが!」
「貴様、今度はなにをした!」
孔明が血相をかえてやってきたのを見て、壷中仙人は、いやらしくも意地の悪い笑みをみせた。
「豆粒ほどの大きさに変えてやったのじゃ! これでもう怖くなんぞないわい!」
見ると、そのとおり、趙雲は親指の先ほどの大きさになって、それでもまだ、がうがうと吼え声を立て続けていた。
「子龍、なんというちっぽけな姿に…しかし、この大きさなら、引越しをせずとも、今の屋敷で飼えるかも! って、冗談だ、冗談! 噛むことないだろう!」
孔明は、両手で豆粒ほどになった趙雲をすくい上げると、仙人に尋ねた。
「貴殿の仙術には感服いたした」
そうであろう、というふうに、仙人は気をよくして胸を張る。
「これほどの術を扱われるのだ。おそらく相当な修行を積んだものと思われるが、いったいどこで修行をされたのです?」
「蜃都じゃ。そなたたち人間は、入ることすら出来ぬ都ぞ」
「たしか、大蛤の吐く息によって現れる、幻の都と聞きましたが、すると、仙人は海の出自か」
「いいや、儂は川辺にて住んでいた。水中にて長く生き、やがて水死した人間の肉を食して、知恵をつけたのが、わが前身よ」
得意げに肩を揺らせて笑う仙人に、孔明はにっこりと、敵国の使者と、ごくごく親しい者にしかみせない、極上のやさしげな笑みを浮かべた。
「人肉を食すとは恐ろしきことよ。なれば、さぞかし世人に恐れられ、ご尊名を轟かせたことでありましょう」
孔明の笑みにさらに気をよくした仙人は、白髯をしごきつつ、得々と語る。
「まったくじゃ。人は弱いものゆえ、わが名を口にすることすら恐れ、儂が姿を現しただけで、神と崇めて生贄を用意したほどじゃ。何せ、儂の口は人なんぞ一飲みであるからな。人は儂を見て、『猪婆龍が出た』と大騒ぎするのじゃ…って、しまったっ!」
「たわけめ、語るに落ちたな。そなたの真の名は『猪婆龍』! さあ、我らを現世に戻すがよいぞ!」
「くそう、儂の『男四人をひっ捕まえてたっぷり太らせておなかいっぱい作戦』が! ええ、いちばんの優男と思って、おまえを侮っておったわ!」
「今度から、現世のことをちゃんと調べてから、人を選ぶとよい。そうすれば、まさかわたしを選ぼうなどとは夢にも思わなかったであろうよ」
「ぬ…食糧に名前なんぞ要らぬと思うて聞いておらなかったな。そなたの名は?」
「諸葛孔明」
すると、仙人は、納得した、というふうに大きく肯いた。
「そうか、おまえがかの赤壁の戦いにおいて、怪しげな術にて風を呼び込み、曹操軍百万(主催者側発表数字)をすべて焼き殺したという、冥土の鬼も裸足で逃げ出す、灼熱地獄の仕掛け人!」
「やかましい! どうしてそこばかりが妙に大きくなって誤って伝わっているのだ! ともかく、さっさとすべてを元に戻せ! さもなくば、この世界も燃やすぞ!」
「バーベキューはいやじゃ! 約束であるから仕方がない! えこえこあざらく! 元に戻れ!」
ぼん、とひときわ大きな白煙があがったかと思うと、孔明と、手のひらの中の趙雲、そうして馬超と馬岱は、真っ白な視界に包まれた。
※
とぽん、と水音がして、『みんなウッカリ。本物の壷中』は、たちまち波に飲まれ、やがては見えなくなっていった。
「この壷中が一個だけだったとは思えない。もしかしたら、第二、第三の壷中が…」
つぶやく馬超に、孔明と、ちゃんと人間に戻ることのできた趙雲は、
「もういいよ」
と、さすがにうんざりして言った。
「ああ!」
馬超は、不意に目をかっ、と見開いて、悲痛な声をあげる。
「今度はなんだ!」
「しまった、あの壷を曹操の元に送りつけてやれば、復讐を完遂することができたかもしれないのに!」
「あきらめろ、とっくに水底ぞ!」
しかし馬超は大きく頭を振って、水面を睨みつける。
「我が一族の辞書に、あきらめるという言葉はない! 探しにいくぞ、岱! ふぁいとー!」
「いっぱーつ!」
どぶん、どぶん、と二つの大きな水音がして、近くで魚を釣っていた漁師たちが、迷惑そうにこちらを睨みつけてくる。
孔明は彼らに頭を下げると、ざぶざぶと元気に泳ぎだした馬兄弟を背に、傍らの、すっかり呆れている趙雲を促して、もう彼らとは二度と関わり合いになるまいと固く決意しつつ、帰路についたのであった。
そして、いまもって馬岱の字は決まっていない。
なんと! さらにまだつづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/06/07)