はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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おばか企画・心はいつもきつね色 探索編・2

2020年10月17日 09時54分12秒 | おばか企画・心はいつもきつね色


「雨が降ってまいりましたな」
と、筆を止めて、執務室より見える庭を見たのは孔明である。
その声に応じるように、その場にいた劉巴、許靖の両名も顔をあげた。
つねにわが道をゆく劉巴のほうは、単に気晴らしのために顔をあげたらしい。
一方の許靖のほうは、さきほどから手持ち無沙汰で仕方がなかったが、孔明が仕事をしているため声をかけられず、ずっと我慢していたところ、ようやく声がかかったので、喜んで顔をあげた。
もうひとり、董和のほうは、孔明の声にまったく反応せず、上下の唇をけんめいに動かして、ひっしになにかを数えている。
決済がひつような書類の、最後の精査をするために、さきほどから何度も計算を繰り返しているのだ。
孔明は、董和待ちなのである。
董和から劉巴、劉巴から許靖、最後に孔明へという流れなのであるが、最初で躓いてしまっているのだ。
とはいえ、董和が眉根に皺をよせ、懸命に数えているのを、さきほどからずっと見ているだけに、せかすこともなかなかできない。

まだまだ掛かりそうだな、と思いつつ、卓に膝を乗せ、孔明はしばらく、音を立てて庭木に雫を落す雨をながめていた。
やれやれ、また雨か。このところ、雨の日が多い。
大降りにならぬとよいのだが。
そうして、ふたたび、薄暗い部屋に目を戻せば、おなじく手持ち無沙汰になっている劉巴と目が合った。
劉巴の顔は変わっていると、孔明は思う。
馬良のように、眉が白いというような、際立った特徴があるわけではないのだが、劉巴は、三日月を横にふたつ並べたような、いつも笑っているような目をしている。
口角も、それに合わせるように、いつも微笑しているものだから、愛想がいいという好印象より、仮面をかぶったひとを前にしているような、違和感をおぼえてしまう。
初対面のときより、なにやら心の読めぬ方だ、という印象があった。それはいまもって変わらない。
劉巴が声を荒げているところを見たことがないが、大笑いしているところも見たことがない。
もっと言えば、泣いているところも、悔しそうなところも見たことがない。
このひとの心は、どのあたりにあるのだろうと思う。
しかし、長年の付き合いのおかげか、だいたいなにを考えているかは読めるようになった。
いまは笑っているようだ。
いつも笑っている顔なのでわかりにくいが、そこは、目の下のちいさな皺で見わけるのである。

「知っているかね」
と、劉巴は切り出した。
「なにがです」
「最近、左将軍府の若い者たちを中心に…まあ、君も若いが…義兄弟になるのが流行っているそうだよ。そういえば、君には義兄弟がいないね」
貴方にもいないではないか、と孔明は思ったが、それは口に出さなかった。
劉巴の経歴は複雑なので、下手に突っ込むと、気まずい思いをするのだ。
「義兄弟というと、大げさに考えてしまいがちだが、いればいたで、楽しいぞ」
と、なにやらご機嫌な様子で口を挟んできたのは許靖だ。
この許靖、左将軍府のなかでは、もっとも老齢である。
とりあえず左将軍長史として、孔明に次ぐ地位にあるのであるが、他者にはじつにわかりにくい道筋で思考を重ねる人物でもある。
朝、だれより早く出仕したかと思ったら、昼過ぎに、眠くなったら帰るといって、悪びれず帰ってしまったこともある。
「長史に、義兄弟がいたとは存じませんでした」
「だろう。わたしも、いままで忘れていた」
屈託なく笑う許靖であるが、その言葉に、孔明はなにやらいやな予感をおぼえて、尋ねる。
「無礼を承知であえてお尋ねいたしますが、長史の義兄弟という方は、すでにお亡くなりになった方なのでございますか?」
「さて、中には死んでしまった者もおるかもしれぬ」
「中には?」
許靖は、手に筆を持ったまま、にこにこと満面の笑顔で頷いた。
「左様。わたしはこの年で、近頃では朝餉になにが出たかも覚えておらぬ始末だ。だから、義兄弟が何人いたか、名前はなんであったかも、忘れてしまったよ」
「左様でございますか…」
許靖の性格からするに、あちこちで、ちょっとでも気の合った者を見つけたら、すぐに盛り上がって、そのまま義兄弟になっていたにちがいない。
そして、きっと一晩たったら、忘れてしまったにちがいないのだ。

許靖の、この記憶力のいちじるしい衰亡は、なにも今日に始まったことではなく、どうやら、江東の孫策と対峙したときに、南蛮の地に逃げ込んで、そこで熱病を患ったのが原因らしい。
以前は、江東の孫家を向こうに回すほどの勢いのある男だったらしいのだが、いまではすっかり好々爺と化している。
しかし、ふとしたときに、
「わたしは、もしかしたら、ずっと熱病に罹ったまま、治っていないのではないかと思うのだよ。いま、こうして貴殿らと言葉を交わしているわけであるが、実は、それすらも熱病のせいで見ている夢かもしれぬな」
などと不気味なことを言って、孔明をぞっとさせることがある。
なににぞっとしたかといえば、許靖の豊か過ぎる想像力に、であるが。
記憶力と想像力は、どうやらあまり関係がないらしい。

「たくさん義兄弟がいる許長史のような方もいれば、君のように、ひとりも義兄弟を持たぬ者もいる。なぜだね」
「なぜと言われましても」
劉巴に問われて、孔明は口ごもった。

孔明とて、世の風潮に合わせ、義兄弟を得ようとしたことがあるのだ。
一度目、徐庶には、
「おまえとなあ」
と、なにやら意味ありげな言葉と共に一笑され、それきりとなった。
二度目、趙雲には、やたらと激しく拒否された。
なんだかいろいろ理屈を並べ立てられた記憶があるが、しかし、なんだってあんなに嫌がられたのだか、いまもってよくわからない。
偏屈者め。

「いまの流行の特長は、荊州の者と、益州の者同士で義兄弟となることだそうだよ。わたしたちから見れば、平和な証だと思うが、どうだね、君も、益州の人士のなかから、義兄弟となるにふさわしい人物を見つけては」
さては、暇なので適当なことを言っているな、と孔明は劉巴の意図を読み、あえて返事をしないでいたのだが、横からまたも許靖が口をはさむ。
「しかし軍師将軍の義兄弟となると、それなりの身分でなければ、釣り合いがとれないのではないかね」
「義兄弟は、相手の身分を見て絆を結ぶものではないでしょう。それを言ったら、軍師に似合いの義兄弟といったら、法揚武将軍くらいしかいないことになってしまう」
そればかりはありえない。ご冗談でしょう、と流しつつ、ふと、脇を見れば、元荊州出身、しかし益州人士と見做されている董和が、まだ、せっせと計算をつづけていた。
孔明は思い立ち、董和に尋ねる。
「董中郎将、如何でしょう、わたしと義兄弟の契りを交わしてみませぬか」
「軍師、いま計算中でなにも耳に入らぬ。すまぬが話しかけないでいただきたい……ああ、わからなくなった。やり直しだ」
董和は、恨みがましい目を向けて、軽く孔明を睨みつけてきた。
二度あることは、三度あったようである。
「もう一度やり直す。お三方とも申し訳ないが、もうしばらくお時間をいただきたい」
「どうぞごゆっくり」
と、傷心の孔明は答えた。
冗談のように口にしたものの、半分は本気だったのである。

劉巴が、にまにまとこちらを観察しているのに気づいていたので、あえて無視して不貞腐れていると、主簿の胡偉度がやってきた。
顔を出すなり、四人の顔ぶれを見て、おどろく。
「おどろいた、許長史がいらっしゃる! 今日は早退されないのですか?」
また、これも一言多いやつだな、と孔明はたしなめようとしたが、許靖は、やはりにこにこと機嫌よくわらいながら、偉度に答えた。
「雨が止んだら帰ろうと思う」
まだ定時まで、ずいぶんあるのだが。
「降られたようだね。ひどくなりそうかい」
と、劉巴が尋ねると、偉度は、水滴のあとのついた衣を気にしつつ、答えた。
「いいえ、西の空は晴れておりましたから、おそらくじき、止むことでしょう。許長史、どうせなら、最後までいらっしゃればよいのに」
いなければならないのだ。本当ならば。
「考えさせてくれ。ところで偉度や、おまえには義兄弟がいるのかな」
その質問に、偉度はちらりと孔明のほうを見る。
孔明が義兄弟だというわけではない。偉度は、自分で組織している細作集団の長であり、部下である者を『兄弟』と呼んでいるのだ。
「おりますよ」
すると、許靖は、できの良い孫が、上手な答えを口にできたかのように、満足そうに何度も頷いた。
「よいことだ。兄弟が多いことは、とてもよい。どうだね、その仲間に、軍師を入れて差し上げては」
「はあ?」
と、素っ頓狂な声をあげて、偉度はちらりと孔明を見た。
孔明のほうも、偉度をちらりと見る。
視線がぶつかると、双方、気まずい思いで、さっ、と逸らした。
偉度は口を尖らせて、言う。
「お断りでございます。このように、気難しく奇矯な方に兄事するなどと、悲劇でございます。いまでさえ、主簿としてお仕えするだけでいっぱいいっぱいだというのに、これで義兄弟となったら、どれだけ面倒を押し付けられることやら。想像しただけで、こめかみが痛んでまいります」
それを聞くや、許靖は楽しそうに笑った。
「ああ、軍師、また振られたようだな」
孔明は、顔をひきつらせて笑うしかない。
と、いうよりは、そろそろ、だれか、ほかの話題を口に出してはくれまいか。
「またとは、どういう意味です?」
しかし、偉度が余計な質問をしてくる。

孔明は、座を立ってしまいたかったが、それもなにやら大人気ないし、董和の計算がいつ終わるかわからないしで、結局その場に留まっている。
横では、許靖が小癪なことに、なんとも嬉しそうに、孔明が董和に義兄弟の話を持ちかけて、一瞬で蹴飛ばされたことを話している。
偉度はすっかり呆れた顔をして、話を聞いているようだ。
「はあはあ、それで二連敗と。お気の毒な軍師将軍。しかし、天才に孤独はつきものでございますゆえ」
「慰めているつもりか、それは」
「君は、印象は華やかなのに、意外に交友関係が狭いからね」
と、劉巴がまたまた口を開く。
いつもは貝のように口を閉ざしているくせに、今日の饒舌ぶりはなんなのだろう。
なにか、よいことがあったのだろうか。
「しかし、君は、知名度、人望ともに、この左将軍府では群を抜いているわけであるし、どうであろう、いっそ、義兄弟を募る、というのは」
とたん、許靖の顔が、星のごとく、ぴかっ、と光った。
孔明は、これほど不吉な輝きを放つ老人を見たことがない。
「それは面白い! さっそく募集をかけてみよう!」
「お止めください。そも、義兄弟とは、真に打ち解け、信頼できる者と絆を結ぶべきものでしょう! 知らない人間と、義兄弟の契りを結ぶことなど、できませぬ」
「会ったら、意外と気に入るかもしれない」
劉巴が適当なことを口にする。
公募なんぞかけたら、孔明の政治力を目当てに、人がわんさか集まってくるだろうことは、劉巴はちゃんと予測している。
しているのに、それでも押してくるところが、この人物の怖さである。
「嫌です。お断りいたします。と、いうわけで、この話は打ち切りましょう。まだ続ける者がいれば、この部屋から出て行っていただく!」
「なら、もう帰ろうかな」
と、許靖が席を立とうとする。ちょうど、雨も小降りになってきたのだ。
孔明はあわてて言った。
「ああ、いまのは取り消しといたします。義兄弟の話をしたら、残業していただく」
すると、許靖は困ったような顔をして、大人しく席に戻った。
とはいえ、許靖は、飾りとして左将軍府にいる、いわば皺の寄ったマスコットキャラクターのようなものであるから、仕事といっても、回ってくるものはすくない。
董和の計算が終わって、劉巴がさらに(とんでもない早さで)二重の精査をかけ、つづいて許靖のところに書類が回ってきたのであるが、許靖のすることといえば、ただ署名をするだけである。
最後に、孔明が全文を読み、決済をおろす。

許靖は、またまた暇になったのであるが、ふと、年に見合わず、子供のような笑みをにんまりと浮かべ、急になにも書かれていない書面に、さらさらと筆を走らせた。
そして、偉度や孔明が、べつなことに気を取られているあいだに、こっそりと、決済ずみの書類入れのなかに忍ばせた。

それは、当然、ひと騒動起こす原因となる。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出 2006/01)

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