蔦重が本屋「耕書堂」を開きました
「吉原」
語源はこの辺りが以前は葦が茂っていたからだそうです
吉原の五十間道という所地図を見ると大門の外ですね
「蔦屋」の名前も見えます
↙浅草がある、あ、奥の方に江戸城と上野と富士山が~
こうして地図を見ると大門の内側は
整然と並んでいます
五十間道は広いですね~
沿道のお店の発展はこれからですね
道から離れた所も田畑が残ってます
「お歯黒どぶ」も見えますね
高い塀とお歯黒どぶに囲まれた吉原
遊女たちは逃げだすことは出来なかった
駿河屋、松葉屋は一等地にあります
栄えていたのでしょうね
いちばん華やかそうな仲の町通
桜の季節には毎年桜の木を根っこ付けたまま
運んできて道の中央にずら~~っと植え込み
お花見が盛大に開かれ賑わったとか
桜の木を毎年植えては季節が済めば抜いた
なんて、べらぼうな!
大門をくぐる前にお客様たちは
蔦屋で吉原の案内本「吉原細見」を買い求め
知識を集めた
この下に載せたのは写真でして
朝日新聞がシリーズで出したものです
ずっと前に夫が購入してました
表彰状くらいの大きさです
「吉原大門内花魁道中図」
歌川豊国 寛政7年(1795)頃
蔦屋重三郎の晩年の頃
「東洲斎写楽」や「曲亭馬琴」とは関わっていましたが
「歌川豊国」とは直接には関わりはなかったとか
この絵は
吉原正面入り口「大門」から中央の「仲之町通」へ
やって来たばかりの遊び客
黒いかぶり物に裾の長い羽織を引きずっている
この出で立ちは「金々先生」と呼ばれてると
ドラマ「べらぼう」でも見ましたね
当時流行りのファッションの遊び客
花魁と禿たちが2組描かれてます
①金々先生を迎えに来た花魁と禿
②後方のお店らしき二階から身をのり出して
見ている客らしき所に行く花魁と禿
と説明文がありました
「遊女と禿図」
喜多川歌麿 寛政年間(1789~1801)初期
歌麿美人の極み、吉原高位の「遊女・滝川」
「べらぼう」で喜多川歌麿と蔦重は関わりますね
遊女の黒地の打掛には白い波の裾模様
更に小さな鈴がいくつも付けられている
襟元を緩ませてあだっぽくしてますが
これも流行りかな、個性かな
禿からの修業は苦しいものでしょうね
花の井もそうだったのか
重三も幼いうちから吉原で働いていた?
図上に文字がありますが
狂歌師 頭光(つぶりのひかる)によるもの
”居続は幾世の孫に帰るらん
桃のこひある色の源”
「居続・いつづけ」
「桃のこひ」
百の媚び と 桃源郷の桃
がかけられている
”このような楽しいところに居続けて
帰ることを忘れそうだ”
という意味だそうです
さて、瀬川を失った蔦重
また大河ドラマ「光る君へ」を
思い出しました
”めぐりあひて見しやそれともわかぬまに
雲がくれにし夜半の月かな”
紫式部
道長と紫式部も悲恋でした
晩年の「源氏物語」を通しての
”めぐりあひ”はありましたが…
重三と瀬川のこの先はどうなるんでしょうか
重三のピュアで優しい心
仕事となると情熱的で猛進しがち
瀬川も幼い頃から重三を光として生きて来た
でも妻として重三を支えていけるかな
重三にもらった「女重宝記」まだ持ってる?
ほんとに瀬川はどこへ行ったのでしょうか
”瀬川ロス”
私は感じています
ふたりの楽しい日々を描いてほしかった
まだ寝ている重三を優しく𠮟りつける瀬川
目が覚めて
夢と分かった重三の寂しさ
夢に見たような楽しい
「蔦重瀬川夫婦道中」が本当だったら…
∞
幕府には何やら不審な「死」が続きますね
「刀」ではなく「毒」がざわつきます
德川家基
鷹狩の最中のあの手袋
松平武元
家基の死の真相を追って手袋を手に入れた
田沼意次
あの手袋は意次が作らせ渡したもの
大奥の高岳(たかおか)・富永愛さん
と
一橋治済(はるさだ)・生田斗真さん
このふたりから噴き出している怪しさ
「鷹狩手袋毒殺事件」
の真相はあらわになるのでしょうか
平賀源内も解決に一役かっていますが
なんだか様子が変…
源内さん、しっかりして!