『ウィリアム・トラヴィス大佐』 2017年9月
間違いだらけで更新してしまうから、後々、しまった、しまった、ばっかしだよ。ユニクロとコンバースのブラックモノクロームが
ごっちゃになって、知らん間にユニクロームになったりしてるよ。笑ってしまうよ。
昨日ね、若者を駅まで送りつつ毎日の散歩の話をしてあげたの。「ひと駅でも毎日は大変ですね」 そう、馬鹿らしい話だよ。
歩くのもね、オレの場合こんななんだよって、〇〇〇、少し後ろで見てろよ。オレも馬鹿だよ、サッサッサッサッて歩いて見せてる。
うっふっふふふって笑ったぶん、「★★ちゃん、まだまだ若いですねえ」って愛想してるよ。
道が暗くて人通りが無いから出来るんであって、こんな駅前でやったら、この辺の変な有名人になっちゃうよ。大笑いだったよ。
オレって、わりと用心深い方なんだけど、ホンマかどうか怪しいね? 次回1866回の駄文が更新になってるから、アレェ~?
慌てて見たら記事の設定ボタンを完成(公開)のほうに黒丸してる。しまった、しまった、ばっかしだよ。
次回の書き出しの初っ端を見られてしまった。まあ、見られたからって慌てることもないけどね、いつも変わらず一緒だもんね。
しかし、そろそろ、話題を変えてマンネリを打破しなくてはならん。沖に漕ぎだし寄せ来る波に乗らねばならん、往けっ、サーフボード。
「泳げるんかいな?」 愚問だね。さて、どうしようかいね? 「泳げんのか?」 亀や魚と一緒にするな、生臭いのは好きじゃない。
「釣りに明け暮れた頃があったろ?」 あったよ。「生臭いのはつきもんだろ?」 水面下に夢を追ったものさ。
「潜ったのか?」 馬鹿か、浮いて来れないではないかっ。オレは水棲生物ではない。陸上動物だよ。互いに相容れない境界がある。
今回は、オレの気分的高揚を図るうえで一回分の駄文をオレの気ままで好きにさせてもらうよ。
遠い昔の西部劇、若い血潮が騒いで目を爛々として大スクリーンの中に溶け入るが如く手に汗握って荒野を駆け抜ける風になった。
往けっ、大いなる西部へ、艱難辛苦を乗り越えて夢と希望を絶やすことなく突き進め。おおっ、麗しき緑なす大平原が待っている。
『映画 アラモ 1960』 『ジム・ボゥイ大佐、 ウィリアム・トラヴィス大佐、 デヴィ・クロケット大佐』
1836年2月23日 から3月6日の13日間、テキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)は、サンアントニオの市外にある
朽ちかけた伝道所跡に砦を築きトラヴィス大佐の指揮の元、ジム・ボゥイ大佐、ディビー・クロケット大佐等183名の義勇軍が立て籠り
メキシコ共和国軍の大軍7000と対峙してジェームス・ウォーカー・ファニン大佐が率いる救援隊の到着を待ちわびていた。
3月3日、悲報がもたらされた。ファニン大佐の率いる500名の救援隊はサンアントニア川に到達したがメキシコ共和国軍別動隊の
急襲を受け撤退し、後、降伏してファイン大佐以下捕虜全員が銃殺された。ゴリアドの虐殺といわれてる。
こと此処に至れりば、アラモを捨て、後方(北)に引いて態勢立て直し遊撃戦で活路を見出す他に術が無いと、ジム・ボウイ大佐。
ウィリアム・トラヴィス大佐は中庭に義勇軍を集合させて 「伝令より悲報がもたらされた、ファインは来ない」 沈鬱な空気が包む。
彼が、この包囲戦中にテキサス暫定政府に宛てて送った 「勝利、もしくは死を」の援軍を求める手紙は、のちのち有名である。
「わたしの隊は留まるが諸君は名誉ある撤退を」 ジム・ボウイ大佐、デヴィ・クロケット大佐らが率いる面々に対し、
『ウィリアム・トラヴィス大佐』 ローレンス・ハーヴェイ
「アラモは落ちる」 「何人(なんびと)たりとも諸君を責める者はいない。諸君は、ヒューストン将軍のために貴重な十日間を持ち堪えた」
「大軍に怯むことなく敵に大打撃を与えた、諸君は勇気ある軍人だ」 トラヴィスは馬上の面々に目をやり 「諸君の武運を祈る」
「Open the gate.{門を明けろっ」 映画では、ジム・ボゥイ大佐(リチャード・ウィンドマーク)が開かれた門に向かって
馬を連ねて隊列組んで出発するんだけど、先頭に立つジム・ボゥイ大佐が馬を止め、見送るウィリアム・トラヴィス大佐を振り返り見るんだね。
二人には、尽く意見対立の遺恨ある仲なんだけど、この場において見捨てることはできない。
ジム・ボゥイ大佐は下馬して負傷した脚で歩を進めウィリアム・トラヴィス大佐の脇に立つんだね。意気に感じて死に場所を決める。
『ジム・ボゥイ大佐』 リチャード・ウィンドマーク
伝説では、「トラヴィス大佐はサーベルを抜きはなち地面に一線を書き表して 「わたしとともに、このアラモに立て籠り
命賭してテキサス独立の為に闘う者は、この線の内側を跨いで来たれよ」と、檄(げき)を発して乞うたという。
いずれにせよ183名の男たちは、自分の意思で其の線を跨いで覚悟を決めた。
其の3日後の3月6日午前5時早朝、メキシコ共和国軍アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍は総攻撃の命令を下した。
包囲するメキシコ共和国軍の大軍7000、朽ちかけたアラモの砦の守備兵力は僅かに183名。実際に攻撃に参戦した共和国軍は
1400名と云われてる。それでも多勢に無勢、午前6時半頃には、最後の銃撃戦が終了してアラモは陥落した。
The Alamo Ballad touching songs (1960)
語り伝えよ のちの世まで
アラモの砦の輝ける十三日間
つづれの旗を誇らしく掲げ
永遠に名を残した砦の寺院
我等の自由を戦いとった
アラモの十三日は栄光の日々
今やラッパは沈黙し剣は錆び
兵士の群れは主の胸に眠る
主の胸に眠る
此の『アラモ』の時代が被って1830年から1880年までのアメリカ西部の開拓時代を雄大に描いた『西部開拓史』が、
オレの想いを繋ぐんだね。堪らんねえ~。他国から海を渡り来た開拓者たちは、東から西へ。そして、南部では、メキシコ領
テキサスに移り住む開拓者たちに対してメキシコ共和国の圧政に不満が暴発、
1835年10月2日、メキシコ共和国からの開拓民からなるテキサス反乱軍によるテキサス独立戦争が勃発。
サミュエル・サム・ヒューストン将軍がテキサス軍を率いて闘ったが、メキシコ共和国軍隊に対してテキサス軍は微力であった。
アラモ守備隊は、其の兵力増強の時間を死を以て賄った。大軍のメキシコ共和国軍の追撃に負け戦が続く中、
1836年4月21日、「アラモを忘れるな」を合言葉にサム・ヒューストン将軍は、劣勢の910人の兵力を以てサンジャシントの戦いで
1200人強の軍勢を率いたメキシコ共和国軍アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍の本隊を打ち破る大勝利をおさめた。
サンタ・アナは逃亡を図り自らの服を捨て一般の兵士の服を着た姿で捕虜となり、自らの命と引き換えにテキサスの独立を承認した。
そして、テキサス共和国が成立、1845年テキサスがアメリカ合衆国に併合された。
遥かなるアラモ 翻訳 Photo Movie Brothers Four・ Green Leaves Of Summer
そして、気分が滅入って来たら 『西部開拓史』へ想いを繋いで続きを書こうと思ってる。しかし、時間ってありそで無いもんだね。
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