


秋田県大仙市にある払田柵。柵というのは城柵のことであり、7世紀から11世紀頃に大和朝廷が築いた拠点のことをいう。広義でいえば「城」に当たるが、戦国時代の城とは趣が異なる。いわゆる役所的な施設であり、行政、軍事、更には官舎が一体化したものであったらしい。現在の感覚でいえば、県庁と警察本部と公営住宅を兼ねていた感じだろうか。この払田柵は明治になってから発見された。木製の柱などが田んぼの中から発見され、住民はそれを燃料(薪)にしたり、加工して下駄を作って販売していたそうだ。これってもしかすると歴史的なものじゃね?という意見が出て、発掘調査がされることになった。ただし資料文献では、この地にこのような柵があることを示すものは存在しないという。結構な巨大施設なので、歴史のミステリーでもある。戦後から本格的な発掘調査が行われ、1980年代には時代鑑定も行なわれ、使われた木材は延暦20年(801)ころに伐採されたものと判明した。
801年・・・。あの坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されたのが、延暦17年(西暦797年、以下西暦にて)である。第一回目の蝦夷討伐に出征したのは西暦801年。第二回目、つまりアテルイを降伏させたのが西暦802年である。まさにその最中に伐採した木材で建てられた柵なのである。ほぼ100%間違いなく、ここは田村麻呂の陣地だったのである。もしかすると一回目の征伐に敗れ撤退するときに、次に備えて建築を命じたものかもしれない。もう興奮してムズムズしてくる。写真は再現された城門である。ここから田村麻呂が馬に乗って入城(入柵)したに違いない。そして写真にも写る背後の山麓では、アテルイが朝廷軍の様子を伺っていたのである。・・・・。そんな歴史的な地ではあるものの、ここに観光客が訪れることは極めて稀である。僕が来たのは3〜4度目だけど、いつもいつも独りである。目を閉じて遠い昔に想いを馳せれば、田村麻呂が懐に忍ばせた香木の香りが漂ってくる。そして風に乗ってアテルイの汗臭い体臭が鼻に届く。・・・気がした。
X-T5 / XF16-80mmF4 R OIS WR
古い時代の人々の活動を伝える遺構、或いはその様子が再現された場所を眺めて、色々と想いを巡らすのも愉しそうです。門の写真は感じが凄く好いですね!!
現在の東北地方の人達と、朝廷が差し向けた人達との争いという経過を伝える場所ですか。そういう歴史を踏まえた地名というようなモノも見受けられるようですね。
興味深い様子を教えて頂きました。有難うございます!
大和朝廷(坂上田村麻呂)なんてのは
とんでもない侵略者ですよね。
歴史の評価って両方の側面からする必要があると
常々思っていますわ。
応援ぽち
想像すると楽しくなります。
再現した門柱も手彫りみたいな仕上げで、こだわっているなと思いました。
僕も当初は侵略者説でしたが、実は両者には戦闘らしい戦闘はなく、単に話し合いをしただけという説もあるそうです。・・・。一体何が起こったのか、夢を馳せました。
東北地方、特に北部では「役所」が偉いという発想が強いですが、僕は江戸期からの話と思っていましたが、この蝦夷征伐からかもしれませんね。