江角ヤス展 2012年02月15日 | 日記 出雲市の商業施設の展示場で開催されました 斐川町出身で長崎純心大学の創始者です 当時、女学生を受け入れていた唯一の帝大であった東北帝大を卒業し、シスターとして長崎で女子教育に専念し、原爆を乗り越えて平和教育活動をしました。同郷の永井博士とも深い親交がありました 最近、本が出たり、このような催しがあったり再度見直されています 実はこの人、私の父方祖母の妹になります。 祖母が、たまに「私も結婚しないで学問していたらあんなになっていたかもしれない」と言っていまし。 となると~私は存在しないか « 誕生日 | トップ | 隠岐は雪 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 長崎純心学園の近くに住んでいます。 ... (純心マッチ) 2012-04-07 00:57:48 長崎純心学園の近くに住んでいます。 突然のコメントで失礼します[E:#xE414] 故江角学長の縁故の方なんですね? 私自身は純心のOGでも何でも無いのですが,近くに純心があるのと,地味でも清潔感溢れる純心の制服に惹かれるものを感じてます。 永井博士の著書に良く登場する江角学長のお名前は,長崎人に取って馴染み深いもので, 一方的に親しみを感じています。 初めは,何と読むのか分からず,えづの?学長かと思ったり,,,,女優の江角マキコさんがデビューして,ようやく読み方が判明[E:smile] 島根県に多い姓なんですね. 純心マッチの歌はご存知ですか? わたしは小さな純心マッチ 今は乙女子 小さいけれど 胸に不滅の炎を宿すー 純心出身の友人から教わりました. どこか 心惹かれるフレーズです. マリア様 厭なことは私が...... 鉄の様な勇気と 覚悟と自己犠牲を感じさせられる,とても重い言葉を 発せられたのも 江角学長でした. 学長の人柄が表れている様ですね. 純心学徒隊の記録に,学園創立から原爆による潰滅,復興までの苦難や道のりが綴られ 学長の苦労や,被爆死した生徒さん達への偽らざる心情や懺悔の念が,胸に迫りました. 神様の 目には見えない導きがあって 遠い長崎の地に, 江角学長も運命的に引き寄せられたのでしょうか....? ある人が言いました。 ??? 神或るならば我が夢も 幼児の如く無邪気なり??? 返信する 初めまして (omura) 2012-04-08 00:23:55 初めまして実は、私は大まかなことは知っていましたが、くわしい業績は知りませんでした亡くなった(1980年)後、斐川町(合併出雲市)教育委員会から1995年に「江角ヤス物語」という本が出てそれで詳しい事を知りました。地元ではそれほど知名度がありませんでしたが、最近見直され、この展示も、離れている出雲市の中心部の商店会の主催でした。生家は田園の真ん中にある家で、たまに見学の方が来られるようです。苗字は「えずみ」と言います。同じ字を書いて「えすみ」と発音する家もあります。祖母の自慢の妹でした 返信する 昔の記事にすみません (遥か昔の純心高OG) 2020-05-31 18:46:01 はじめまして。お会いしたことはないけど創立者江角先生の優しい笑顔、憧れでした。学園の先生方の教え、心の綺麗な志願生達との会話(当時信者が多数通っておりました)を思い、親の反対を押切って行って良かったと、振り返ればしみじみと思う出来事が色々とありました。遠い島根の地から大変なご苦労とともに長崎に学園を作って下さり本当にありがとうございました。今でも島根と聞くと江角先生と神様のような永井博士を思い静かに祈りたくなります。ご親戚とあり、突然のコメント失礼いたしました 返信する Unknown (omura) 2020-05-31 21:16:49 コメントありがとうございます出身地より長崎の方が知名度が高いようですね何年か前に私が行く大学の学生が知っていてびっくりした事がありますその学生が純心マッチの事を話していました学生の実家は長崎県でした永井博士は出身地が記念館を作っていて島根県の知名度は高いです出雲市も記念碑ぐらい建てて欲しいものです 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
実は、私は大まかなことは知っていましたが、くわしい業績は知りませんでした
亡くなった(1980年)後、斐川町(合併出雲市)教育委員会から1995年に「江角ヤス物語」という本が出てそれで詳しい事を知りました。
地元ではそれほど知名度がありませんでしたが、最近見直され、この展示も、離れている出雲市の中心部の商店会の主催でした。
生家は田園の真ん中にある家で、たまに見学の方が来られるようです。
苗字は「えずみ」と言います。
同じ字を書いて「えすみ」と発音する家もあります。
祖母の自慢の妹でした
出身地より長崎の方が知名度が高いようですね
何年か前に私が行く大学の学生が知っていてびっくりした事があります
その学生が純心マッチの事を話していました
学生の実家は長崎県でした
永井博士は出身地が記念館を作っていて島根県の知名度は高いです
出雲市も記念碑ぐらい建てて欲しいものです