おれ、彼女を足蹴りにしたわけでない。
伊勢丹の婦人服売り場付近で見失っただけ。
痛みに耐えかねて細腕が渾身の力で振り払うと、クロー、ぶかぶかの背広の袖にしがみつく。
金魚どもをモグラの太陽のように怯え、最短距離の穴――地下鉄の入口にもぐり込む。何処へ行くのよ!このドブネズミ。
おれ、パチン式ねずみ取り器を尾っぽに引っかけ、階段を駆け下りる。
背広の前ボタンがはじけ飛び、金魚どもの注目の的はボタンではなく、おれ。
彼女の手にてれんてれんの、吊しの背広が残り、トカゲの脱出を遂げる。
彼女、そうはさせじと、投網の要領で背広を投げる。
無様にも頭からすっぽり背広を被り、花道を引き下がる獅子舞の様、おれ、見た目は尻をからげて俄雨を駆け抜ける奴みたい。
その実、パチン式ねずみ取り器でシッポ痛めた鼠、A1だかB2だかビタミンみたいな地下道をうろつき、遊歩公園へ出て、無理して鼻唄など歌い、電信柱に登った工事人なんか眺める余裕みせて、四谷の真っ暗なジャズ喫茶へしけ込み、目ばかり光らせて、有り金五百円以内でビールを飲む。
かと言って、おれ、帰らねばならない。
四谷で電車に飛び乗り、すばやく、席をめっけて腰降ろす。
顔の引きつった中年の女、傘なんかぶらぶら下げ、まっしぐらやってくる。
おれ、クローの危険を感じ、席を立つか、立つまいか。
女、にんまり笑って、しゃにむに割り込む。
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