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宗教教団の敗北と堕落

2010-12-20 17:21:48 | 現代日本および世界
こんにちは、テツせんです。
すっかり冬の気候になり、耳がしもやけになりそうですが、
みなさん、風邪などひかれていないでしょうか?

さて、前回の「子どもが生きられない社会!」というテーマとはかわりまして、
今回は、<個の存在の苦悩から生まれたはずの宗教の変節 > についてお話してみたいとおもいます。

ただし、わたしのブログのお話につねに通低しているものは、
わたしたちの <個の尊厳 と本当の自由 > の獲得ということにあります。
言いなおせば、支配共同性からの自立をもとめることにちがいありません。
そういう意味では、すべてのブログ記事は一貫しているとかんがえます。・・・

それではさっそく、
- 洋の東西を問わず、原始キリスト教や釈迦仏教など古くからの宗教も、新興の宗教集団も、
現代においては、
歴史的な存在意義をもつ教義信仰の本質から離れて、
ゆるゆると世俗化し、
あるいはまた意図的にはずれて、
官僚的な組織維持が主たる自己目的と化してゆくことをまぬがれていない。・・

本来、まっとうな宗教の誕生には、
《 個の生存の苦悩の果て 》の『はげしい根本教義 』を内包しているものである。
そこにこそ、存続の意味と価値がまぎれもなくありえたはずである。

そして教義が周囲の大衆から圧倒的な共鳴をえながら伸張しはじめた宗教集団は、当然
ときの国家権力や既存宗教の権威と対立することが避けられない。
なぜなら、『はげしい根本教義 』には、
《 個の生存の苦悩の果て 》の大衆のエネルギーが横溢しているからである。

すなわち既成の権力や権威にとって、かれらはもっとも危険な集団として映るためである。・・

戦前戦中の日本で、数々の新興宗教集団が弾圧されたことは、その証左である。
そこでもし、
たたかわないという結論に従うとすれば、
その教団はみずからの根本教義を曲げて、権力にすり寄り転向したことを意味するだろう。
そのことによって、その教団は存続をゆるされたというわけである。

だが、
もはやその教団には開闢以来の大衆の熱狂的な共鳴をえられず、
歴史的な意味も価値ものこされてはいないという皮肉な矛盾をかかえて、なお、

こけおどしの豪壮な建物で偽装し、
みずからの自家撞着をつくろいながら
プチ共同体の集団ヒステリー快感に依存した組織だけが
いまだに存続していることの不気味さは異様といえよう。

その異様ないくつもの教団指導部には、たいがい、代替わりのたびに、
『神懸かり』の能力をも擁した始祖とはほど遠い、
秀才のお坊ちゃんたちが座るようになっていくのは、

信者大衆が自己幻想から疎外した権威の象徴づけの、時代的な変移を示している。
吉本隆明の「共同幻想論」に則していえば、

ここにはまったく自己喪失した日本の大衆が共同幻想を疎外するときの、
貧弱な自己幻想がまんまとプチ支配の側に利用されていることがわかる。

教団指導部は
信者たちを階級組織化することによって巧妙に教団を存続させ、管理維持している。
まるで、まったく国家権力と官僚システムをまねるようにして、
指導・管理(支配)する側が信者たちに養われていることまでがおなじ構造をみせているのは、
度しがたいはなしである。

そのうえに、教団は、選挙の集票マシーンとしての動員力を背景に、
権力との相互依存関係を再構築している。
皮肉なことにいまでは
相対的に、戦前戦中とはちがって、力関係は逆転しているとみられる。

そのなかでも大きな利益としては、納税をまぬがれることであろう。
そして現実に、
これによる巨額の蓄財・資金が、行政や司法やマスメディアへの影響力として行使されているという。・・・

まことに民主主義を逆手にとった、ありがたい資本主義ファシズムのご本尊であるといえよう。・・・

- こんなものに頓着せず 背を向けたまま 大あくびをするような大衆こそ 頼りになる。 -

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