「私はそんな妙な言い訳をしていない」
とおっしゃる大勢の方にも、多かれ少なかれ、
人はこのような「自己解釈」を無意識に行なっているものなのです。
ですから、
この種のスキゾフレーニー的な心的領域は、
じつは誰にも起こり得ると考えておく方が自戒にもなるわけです。
他人のことだからよく見えるだけのことで。・・
当のクライアントは、
そのような一種の強迫性不安を抱えていて、
「本当のこと、事実そうだ」と言ってなかなかその考えを変えようとはしません。
「ではなぜ? 変えようとはしないのか」ということが
「心の学」の核心の部分でもあるとおもいます。
そこに潜んでいる心の病は、
じつはけっこう重くて、
根深いものを抱え込んでいるように考えます。
--「そう考えている」ことが、本当に不都合であれば変えてもいいはずですよね。
--でも一見他人からは不可解で不都合に見える考えが、
当のクライアントにとっては、
「その考えを抱えた自分」の方が「都合が良く」て、
「安心していられる」のであろうと考えればどうだろう。
--つまり、「不都合を抱えた自分」を手離したくない、
むしろそれは
「必要な難儀」というべきものではないだろうか?
ということになる。
(つづく)
とおっしゃる大勢の方にも、多かれ少なかれ、
人はこのような「自己解釈」を無意識に行なっているものなのです。
ですから、
この種のスキゾフレーニー的な心的領域は、
じつは誰にも起こり得ると考えておく方が自戒にもなるわけです。
他人のことだからよく見えるだけのことで。・・
当のクライアントは、
そのような一種の強迫性不安を抱えていて、
「本当のこと、事実そうだ」と言ってなかなかその考えを変えようとはしません。
「ではなぜ? 変えようとはしないのか」ということが
「心の学」の核心の部分でもあるとおもいます。
そこに潜んでいる心の病は、
じつはけっこう重くて、
根深いものを抱え込んでいるように考えます。
--「そう考えている」ことが、本当に不都合であれば変えてもいいはずですよね。
--でも一見他人からは不可解で不都合に見える考えが、
当のクライアントにとっては、
「その考えを抱えた自分」の方が「都合が良く」て、
「安心していられる」のであろうと考えればどうだろう。
--つまり、「不都合を抱えた自分」を手離したくない、
むしろそれは
「必要な難儀」というべきものではないだろうか?
ということになる。
(つづく)