その夜、来栖と若木は0時近くまで黄道の会について、語り明かした。と言っても、実際、話をしていたのは若木の方で、来栖は時折質問をはさむことはあったものの聞き手だった。来栖にとっては、予想外のことも多く、また、今まで知らなかったが、若木の話を聞いて、その理由が初めてわかったものがあった。たとえば、黄道の会の比較的豊かな資金源についてである。このY村にあってはほとんど場違いに巨大とも言える大講堂やY村に数ヵ所ある現代的建築の粋を集めた「道場」と言われ、日本だけではなく、世界各国の黄道の会の会員のための修行と学習の場である、黄道の会研修センター――これらの建設には莫大な費用がかかっていることは間違いなかった。また、東京のFに黄道の会東京本部があり、その十一階建のビルディングは、黄道の会が土地建物を全て所有し、テナントへの賃貸(課税対象)もしているビルであり、創立時の二十数年前にはほぼ0円だったはずの黄道の会の資産が急激に増えていったことを物語っていた。
ここに二つの要因があった。まず黄道の会の発足当時から数年間は、H県にあっては、欧開明の日本の親族の役割が大きかった。欧開明の母方の祖父の家はH県の大地主であり、その母方の祖父、古塚孝三郎は戦後、中国(華北)から引き揚げ後、GHQの農地解放により、平野部の耕地を小作人たちへただ同然で手放すこととなったが、所有する山林はそのまま据え置かれた関係で、林業を継続することができた。また、かねてから政治的野心のあった古塚孝三郎は保守政党から衆議院に立候補して当選し、そのまま連続して当選すると、有力省庁の大臣を勤めあげ、高齢で引退後、当時三十代の孫の啓三が地盤を引き継ぎ、衆議院議員として活動するかたわら、黄道の会の会員として、また、黄道の会の最強の後ろ盾となっていた。当初、Y村で、西洋野菜やキノコ類をつくる、その当時はまだ珍しかった集団農業の会社を古塚孝三郎の支援を受けて、立ち上げた黄道の会だったが、日本国内の菌床生産のしいたけが出始めたころから、黄道の会の会社が山間部で人手をかけて作るコストの高い原木のしいたけがおされはじめ、人を解雇せずにはいられなかった。そのあと、大幅な業務の方針転換があり、黄道の会の思想に基づいて、新製品の開発を常に行い、ヒット商品を連発する食品及び菓子メーカーの会社に変って行った。
もう一つの要因は宗教団体の収入源の常道の二つで、東京のF本部の鵬(通称:ほう)役員が主体となってすすめた東京都市部周辺の高所得者の会員を取り込んだ非課税の寄付金(喜捨金)の接受であり、それに加えて、「黄道の会 出版社」の欧開明の著作の発行であった。これは日本国内だけにとどまらず、海外にあっては英訳本、フランス語訳本、スペイン語訳本等に加えて、欧開明の母国語である中国語版も黄道の会の支部のある、台湾、香港、東南アジアの華人向けに出版されていた。
これらの収入源の中で、やはり最大のものは各会員から受取る寄付金であったが、それは黄道の会の場合、一年に二回、黄道の会が主催するイベントがあり、そのときに各会員はそれぞれの経済状況によって、任意の金額を納めることになっていた。
これとは別に、一部のマスコミでは誠しやかに報じられていることがあった。それは、近年数回にわたって、黄道の会が江戸時代後期の金本位の低い小判(1枚数万円相当)をまとまった量(合計数百両前後)を古銭商を通じて売りに出したことがあり、黄道の会からの公式発表では、名前は公にできないが、ある会員が、自分が所有する、先祖から伝わる小判を換金せず、そのままの形で黄道の会に寄付をしたからだと説明していたが、実は黄道の会はY村に伝わる埋蔵金を密かに発見し、それを公にせず、自分のものとし、できるだけ目立たぬように数回に分けて、現金化するために売りに出しているという噂があった。もし、これが事実ならば、宝探しを続ける原良にとっては、長年の努力が報われず、お宝を黄道の会に先に発掘されてしまった――とも言うことができた……
来栖の頭の中では、今までなかった黄道の会に関する新たな理解が生れていた。それは欧開明は確かに黄道の会を代表する高尚なシンボルであったが、それは必ずしも黄道の会の執行部のトップを兼ねていると言うわけではなく、執行部のトップは東京のF本部にいる鵬役員だと言うことだった。確かにY村本部には祭司部、教学部はあったが、執行部があるのは東京のF本部だけだった。





