東京の近くから新幹線に乗って、母とわたしは午後三時ころにSに着きましたが、母は、兄がその病院に入院した当初、一度来たことがあったので、駅からタクシーに乗って、間違えることなく、病院にたどり着くことができました。
兄の担当医に連れられ、集中治療室の入口の前にさしかかったとき、背の高い、今まで見たことがないような美男子の男の人が、ネクタイにスーツ姿で立っていることに気がつきました。母とわたしは、普通の人とは思えない、その男の人から、一種独特のオーラが発せられているのを感じて、驚きました。「……欧開明と申します……」その人目をひく容貌の紳士はそう言って、母とわたしに向って、頭をゆっくりと静かに下げました。わたしの母は、この黄道の会をたいへんいかがわしいものと感じ、自分の息子がこのような命にかかわる重い病気になったのも、この黄道の会に入ったせいだとさえ、思っていました。ところが、どうでしょう。母は欧開明先生を目の当たりにし、その本人の非常に高邁な精神から発せられるオーラによって、一種の陶酔するかのような感覚を感じ、一瞬のうちに、目の前のこの人をたいへん尊い、ありがたい存在であると感じるようになってしまったのです。わたしも母とまったく同じでした。わたしも兄から欧開明先生のすごさ、偉大さを聞いていましたが、実際の欧開明先生から発せられるものに圧倒されてしまいました。母とわたしは欧開明先生に黙礼を返すと、先に入って行った担当医に呼ばれて、集中治療室に入りました。
兄は眠っているかのようでした。肺炎を併発し、高熱のため、危険な状態には変りはないですが、担当医のお話では、熱も少しだけ下がり、いくぶん持ち直したとのことでしたが、まだ油断はできない状態とのことでした。母は兄に向って、名前を呼びかけましたが、兄はうっすらと目を開きかけて、また閉じてしまいました。母はあきらめず、その後も、再三、兄に呼びかけましたが、兄は眠ったままでした。そうした兄でしたが、時間が夕刻に近づいたある一瞬、目を見開いて、あたりを見回し、母とわたしがその場にいるのがわかったようでしたが、また目を閉じてしまいました。そのあと、目をつぶったまま、何か言葉を発したようでした。母は兄の口元に耳を近づけて、兄の言葉を聞き取ろうとしました。わたしも兄の言葉が気になりましたが、母の話では、兄の言葉は「ごめんなさい」だったとのことです。兄は母に何をあやまったのでしょうか?――兄をよく知るわたしは、サラリーマンとなって平凡な人生を歩むことを願った母の望む方向に自分が行かなかったことに対して、兄が母にあやまったのだと思っています。
遠方から来たこともあり、母とわたしは病院に宿泊することを許可され、その夜は母とわたしが交代で兄を看ることになり、先にわたしが、病室の簡易ベッドで睡眠をとり、午前二時に母と交代することになりました。
わたしは慣れない場所であったこと、また、兄のことがたいへん気がかりだったので、なかなか寝つかれませんでしたが、うとうとしていると、いつの間にか集中治療室のベッドにいるはずの兄がわたしの枕元に立っているのを目にして、たいへん驚きました。兄がわたしに手招きをするので、わたしが兄について病院の部屋を出ると、そこはいつの間にか病院ではない、夕方のような赤い光の満ち溢れた場所でした。兄はわたしに向かって言いました。「……友紀、聞いてくれ、ぼくは宇宙のみなもとの源体にもどることになったんだ……」わたしはその言葉を聞き、兄がこの世から去ることを直感し、兄の手をつかみ、引き戻そうとしましたが、兄の手がまるであたかも幻影であるかのように、一瞬宙をつかんだような感じで、つかむことができませんでした。
ふと気がつくと、自分が兄のあとを追って、病室を出たと思ったのは一瞬の錯覚で、実際は病室を出ていなくて、わたしはベッドに寝たままでした。幸せそうな表情の兄も、わたしの枕元に立ったままでした。わたしはそのとき、ベッドから起き上がろうとしたのですが、まるで金縛りにあったかのように、動くことができませんでした。兄はそうしたわたしに身振りでそのままでいることをうながし、わたしににっこり微笑むと、わたしに背中を向けて、部屋から出て行きました。わたしはあとを追おうとしましたが、ベッドから起き上がることができませんでした。そのときでした。突然、「三輪さん、三輪さん」と言う看護婦(当時の呼称)の方がわたしを呼び起こす声を耳にし、はっとして目を覚ましました。
わたしは起き上がると、集中治療室に向かいました。今から思い出しても胸が引き裂かれるような悲しみを感じますが、兄はそのときすでに帰らぬ人となっていたのです。それはちょうど数分前のできことのようでした。母はその場で泣き崩れていたのでした。
来栖は再び友紀の手紙を読み始めた。
――来栖先生、きっと驚くかもしれませんが、実は去年亡くなったわたしの兄は、わたしの双子の兄で、しかも、わたしと兄は、ほとんど例がない一卵性の可能性が高い男女の双子でした。一卵性の双子は普通、同じ性別になるそうですが、わたしたちの場合は、別々の性になって生まれてきました。一卵性の双子ではよくあることですが、わたしたちは片方がころんでけがをすると、もう片方はけがをしていないのに同じ体の部位が痛く感じることがありました。また、あるとき、兄が危険な目にあったとき、遠く離れていたにもかかわらず、わたしは兄のその強い不安を自分も感じることがありました。子供のころは、わたしと兄は非常によく似ていて、同性の双子と思われ、わたしが女の子の服を着た男の子ではないか、または兄が男の子の服を着た女の子ではないかと言われたこともありました。これらのことと大きく関係があるのですが、これからお話することは兄が亡くなる前にあったことです。
兄は大学時代から、アルバイトをして貯めたお金で、一人で世界中を放浪し、たまたま外国の旅先で出会った黄道の会の現地の支部の方から黄道の会の教えに接する機会があり、日本に帰国後、黄道の会に興味を持った兄は、この東京から離れたY村にやって来ました。そのとき兄は直接欧開明先生と話す機会があり、たいへんな感銘を受け、その後、しばらく、Y村の北里製材所や食品会社でアルバイトをしながら、修行を続け、三ヶ月後、正式に入会しました。わたしはその頃、東京のある大学の教育学部を卒業しましたが、当時の教員採用試験の倍率は高く、卒業年度では合格せず、地元の県の産休補助教員に登録してから、わりと早く採用され、来栖先生と同じように産休補助教員をしていました。ところで、兄は、元々名前が「真人(まこと)」で、これは黄道の会では、欧開明先生ですらまだ達していない、「源体」と一体化し、最高の「自然」の境地に達したと言われる人に送られる称号の「真人」と同じ字なので、最初、黄道の会の人々はよく、黄道の会に兄が入会したのは自分の持って生まれたものが導いた「宿命」だと言っていたそうで、兄はこれから厳しい修行を続ければ、その名の通り、ほんとうに「真人」になれるのではないかと言われていたそうです。兄はそのころ家に帰るたびに、わたしに、欧開明先生のことや黄道の会のことを熱心に語ってくれました。実際兄とわたしは双子の兄妹だったこともあり、他人が間に割って入ることができない、心が通じ合う、大の仲良しでした。ところが、最初、兄が黄道の会に入会したと聞いた時の父と母の驚き、その衝撃はたいへん大きかったです。わたしは兄を心から信じていて、よく理解していたので、兄のすることは間違いがないと思っていましたが、母の心配は並大抵ではなく、涙ながらに兄が黄道の会をやめるよう、兄に哀願するほどでした。母の願いは、留年していたとは言え、まだ在籍していた大学を兄が卒業し、就職して、普通のサラリーマンになってもらうことでした。ひとしきり、父母と言い争ったあと、兄はいつも外国に旅に出るようにバックパックに自分の身の回りの物を詰め込むと、一言もしゃべらずに、小雨の降る晩、傘もささずに家を出て行きました。わたしは弟といっしょに兄を追って駅まで駆けて行きました。わたしは別れ際、兄の手を握り、自分が兄を信じていることを伝えました。兄はうなずくとそのまま、車上の人になりました。
その後、わたしが兄と会ったのは、その約一年後で、病院の集中治療室で目にした兄は、すでに危篤の状態でした。家を飛び出した兄は、その後もY村で修行の毎日を送っていましたが、そのとき病名はまだわかりませんでしたが、兄の具合が悪くなり、かなり病状がすすんでからも、修行によって自分が取り込む「気」を充実させることによって、自然治癒力を高め、治すことができると信じ、周囲のすすめも聞かず、病院に行こうとしなかったそうです。ついには欧開明先生自ら、わたしの兄を説得して、やっと病院に行くことに兄は同意したそうです。兄はその症状から、重病の可能性があったので、Y村から近い、N町の病院ではなく、車で一時間半のH県の県庁のあるS市の大きな病院に運ばれました。最初、兄は病院の検査で急性白血病とわかると、白血病の治療で実績がある、今回わたしが入院した、家から遠くない、F大病院への転院をすすめられましたが、兄は最期のときまで、Y村に戻って修行を再開できるものと考えていたので、同意しませんでした。兄が入院した後、会員を家族と考える黄道の会は、長い間、交替で病院に人を派遣して、兄の身の回りの世話などをして、兄を支えつづけていました。ところが、あるとき、そのS市の病院から、兄の病状が急転したとの連絡を受け、母とわたしは急きょ、兄のもとに駆けつけたのでした……





