来栖が母に語ったその三年前の出来事は、来栖にとってはそれに出くわす直前まで、全く予想もできなかったことだった。そして、もしその女性が、本当によしこならば、来栖は自分とよしこの不思議な縁を感じざるを得ない話だった。
あれは来栖が東京で産休教員をしていたころだった。毎日朝、自転車で彼が勤務する小学校に通勤するのが日課だったが、ある日のこと、いつものように通勤途中にある大きな川の長い橋に差し掛かったところ、橋の上から川に飛び込もうとしている若い女性を見つけた。来栖は自転車を打ち捨てて、そのまさに川に飛び込もうとしていた女性を橋の手すりから引きずり下ろしたことがあった。来栖は自分を解き放すよう大声を出す女性をまた橋の手すりに上がらないよう必死に抑え付けていたが、ふと気がつくと、大勢の人たちに取り囲まれ、警察官なども現れ、たいへんな騒ぎになっていた。来栖は実際その時助けた女性が、今から思うと、よしこに似ていたような気がし始めていたのである。その来栖がいたその東京の地域は、大きな河川や小さな川が数多くあり、大きな川の橋の上では朝は渋滞が発生しやすく、その時も橋の上では車の長い列ができていた……
「……そんなことがあるもんだろうか?そのときの女がよしこだったなんて……」来栖の母はそう言うと、原良に連れて行ってもらった村に一軒しかない個人経営のスーパーで買って来た食材で作った料理を卓袱台の上に並べ始めた。
「さあ、できたよ……」
来栖は母と食卓に着くと、ゆっくりと夕食を取り始めた。
「……でも、雰囲気がよく似ていたような気がするなあ……」来栖はそう言うと、立上り、テレビのチャンネルを変えた。別の局で、「黄道の会」の特別番組があり、来栖も知らなかった「黄道の会」の設立から現在までの歴史がドキュメンタリー風に紹介されていた。その中には若き日の欧開明の姿や鉱山が閉鎖されたばかりのY村の二十年前の情景が映し出されていた……
来栖と母は暫くテレビに見入っていたが、突然、何かが頭の中にひらめいたかのように、母に言った。
「……ああ、そう言えば今、思い出したけど、川に飛び込もうとしたその女の人は、左手の甲に大きな黒子があったような気がする……よしこに黒子があったかどうかはわからないけれど……」
来栖の母は驚いて、来栖に問い返した。
「……おまえ、そんなときに、よく、その女の手の甲に黒子があったなんて、覚えているねえ?」
「……もみあったあげく、その女の人は橋の手すりから歩道に落ちて、ぼくは彼女がまた手すりの上に上らないように一生懸命押さえつけていたけれど、ちょうどそのとき、黒子のあるその左手が目についたんだよ」
来栖はそう言うと、母の作った味噌汁をすすった。
「……警察の人が来たので、ぼくは学校に間に合わなくなるので、状況を伝えて、その場を離れたけれど、その後、どうなったかはわからないんだ」来栖がそう言うと、母はさも納得がいかないかのように来栖に尋ねた。
「……人助けをしたんだから、警察から表彰されるはずだけど……何もなかったのかい?」
「それが……ただでさえ、遅刻ぎりぎりで、急いでいたもんだから、警察には自分の名前も連絡先も伝えなかったんだよ。その警察の人も若い人で、だいぶ慌てていたようだし……」来栖は答えた。
「ばかだね、おまえは。相変らず、後先のこと考えないんだから。もし、人助けで表彰されてたら、教員採用試験の面接のときに、印象がよくなるんじゃなかったのかい?」
母は自分の息子の世渡りべたは誰に似たんだろう、としきりに嘆くばかりだった。
来栖は自分の話が意想外の方に転んで、面くらってしまった。
その時だった。外から強く扉を叩く音が聞こえてきた。
「籾田(もみだ)さん、おれだよ。村に戻って来たんだよ」
来栖と母は驚いて、思わず顔を見合わせた。





