明くる日は、この季節には珍しく、急速に発達した低気圧の影響で、朝からどしゃぶりの大雨だった。
母を伴って朝から分校に出勤するつもりだった来栖が扉をあけると、たちまち大粒の雨が降りかかって来た。
「母さん、この雨じゃあ、傘をさしてもびしょ濡れになってしまうよ……分校に行くのは明日に延ばしたらどうだろうか?」来栖は母にそう言うと、いったん扉を閉め、部屋の中で何かをしきりと探し始めた。
「……さっき、天気予報ではお昼頃に雨があがるって言ってたけど……昼すぎになったら行こうかねえ……あの親切な人、そうそう、はなよしさんが分校に案内するって言ってくれてたけど……」
「はなよしじゃなくて、はらよしだよ。あの人は……」来栖が訂正した。
「……ああ、そうかい?そうそう、はらよしさんだったね……」母はそう言って、朝食を終えた後の食器を小さな流し台で洗っていた。
ようやく、来栖は探していた雨合羽を見つけ出すと、それを着込んで、外に出た。傘をさして、雨合羽も着て、二重の装備だったが、実際傘があまり役に立っていなかったことは一目瞭然だった。
来栖は激しい雨でびしょ濡れになりながら、分校にたどり着いた。来栖は児童たちが登校する前にすべきこと――例えばいくつかの扉の鍵を開けたり、職員室の掃除とゴミ捨てを行った。用務員がいないので来栖はそのようなこともしなければならなかった。
職員室の教師の机は予備を入れて四つと分校長を兼ねる非常勤のN町の本校の校長の机と席があったが、その机の上にダイヤル式の電話が一台置かれていた。突然、その電話のベルが鳴り、来栖は慌てて受話器を取った。
「……もしもし、Y分校ですが……」
「……来栖先生、わたしです。三輪です……」来栖が受話器を通して耳にしたのは、はるか遠くから聞こえて来るようなか細い友紀の声だった。
友紀が来栖に告げた状況は、東京近郊の病院に入院するとは決まっていないこと以外、昨夜村長の大木から聞いたこととほぼ同じで、自分の貧血がかなり重症なため、専門医のいる病院で治療を受けるため、東京近郊の自宅に帰ることになったことなどを来栖に伝え、それに加えて、病気が治って戻って来るまで、来栖には迷惑をかけることになるので、たいへん申し訳なく思っていること、また、児童たちによろしく伝えて欲しいと彼女は言った。
来栖は友紀に、分校には自分以外に李玲玲もいるので心配はないこと、友紀の病気が一日も早く治ることを祈っている旨を伝えて、受話器を置いた。
来栖が友紀のことを思って、深い感傷にひたろうとしたのも束の間、間髪を入れず、すぐに別の電話がかかって来た。それはN町の本校の校長からの電話で、Y村も含めたこの地域一帯に気象庁から「大雨警報」が出ているが、山間部のY村は地盤が緩い場所で地滑りも起きる可能性があるので、N町の本校は通常通りだが、N町の教育委員会とも相談して、分校は休校にする、との連絡だった。
登校時間まであと三十分だったが、来栖は連絡網の最初の児童の家に電話をかけて、今日は休校になる旨を伝えているところへ、ガラガラと職員室の扉を開けて、雨に濡れて、髪の毛を振り乱し、びしょ濡れのレインコートを着た李玲玲が飛び込んで来た。彼女はレインコートを脱ぐと、タオルを取り出し、濡れた頭を拭いたりして、処置にたいへんだった。
来栖は受話器を置くと、李玲玲を見て言った。
「本校の校長から連絡があって、今日は休校になりました」
「えっつ!ほんとに?」玲玲は休校になることを全く予想していなかったらしく、驚きの声を上げた。
続いてどたどたと足音を響かせ、低学年の男の子一人と高学年の女の子の二人の児童が若い父親らしい人に連れられて、職員室にやって来た。
「……おはようございます。雨があんまりひどいんで、うちの子と同じT(村の集落の地名)の子供を車で送ってきました」児童の父親は言った。
来栖から休校になったことを聞くと、児童たちから歓声があがり、父親は児童たちを連れて、今来たばかりの道を戻ることになった。車で来たとは言え、視界も悪い豪雨の中をやって来た三人の児童と父親を見送って、来栖が職員室に戻って来ると、玲玲が電話の受話器を指し示して言った。
「……来栖先生にお電話です……」
母は来栖に警察がたずねてくるのはなぜなのかしきりに知りたがった。母は実際、自分の息子が犯罪と関わりあって、警察の事情聴取を受けることなど、まったく考えが及ばなかった。また、来栖の方では、精神に障害のあるよしこを知らない、自分の母にこれを理解させるように話すのは一定の難度があるように感じていたので、説明することにだいぶ気後れがしたが、見方を変えれば、来栖自身は、よしこの妄想による被害者であるとも言うことができ、彼自身が警察から犯罪の嫌疑を受けることは考えられなかったので、警察から聞き込みを受けることは何ら問題の無いことであるはずだった。
しかし、来栖にとって、気にかかることが一つだけあった。それは八雲が時折見せた、よしこに対する故意の誘導であった。妄想であったのか、実は本当に欧開明との関わりがあったのかどうかは定かでなかったが、よしこの本命の男性は長身でこの世の者とも思えない美男子の欧開明だった。よしこの恋愛対象から欧開明をはずすためなのか、八雲が最近では特に来栖の名前を持ち出し、暗示にかかりやすい、よしこに対して、強く働きかけていた。八雲は欧開明を守るために来栖を捨て石にしていたのか、或いは別の目的があったのかは、誰にもわからなかった。もっとも、比較的最近、このY村にやって来たばかりの来栖がよしこに関わる事件の加害者となることは時間軸の中では考えられたことではないので、真実がもし存在するならば、来栖を捨て石として利用するのは、細かい事情を知らない一般の人々に対して、誤解を促し、表面的に覆い隠すには都合のよいことなのかもしれなかった。
来栖は自分のことを妄想する、精神に障害のあるよしこのことを母に話した。母は最初事情がよく飲み込めず、このような山奥にいるはずもない、息子につきまとう、水商売の酒場の女性とも取り違えたが、その内、テレビのニュースで報道のあった女性とわかると、来栖に意外なことを言った。
「……その女はきっとこの村の秘密をみんな見て知っているのかもしれないよ……いろいろなところに警戒されずに入っていけたんだろうし……」
確かに時には他人に害を及ぼすような奇行のあるよしこだったが、来栖は黄道の会の幹部の面々からは皆のマスコットにように扱われ、温かい目で見られているのを知っていた。それは欧開明のよしこに対する接し方を皆が見習っている可能性が高かった。実際、欧開明はよしこに対して、たいへん丁重でやさしかった。よしこが欧開明を自分の理想の王子様のように思ってしまう理由の一つもここにあるのかもしれなかった。
また、来栖は八雲のことも母に説明する必要を感じていた。この黄道の会の『雑用係』は、あの中国の権力者が彼の死後台頭してくる自分の部下を評していったような「綿中に針を蔵す」と形容されるべき人物で、村役場のまだ二十七歳の若い、一職員に過ぎない八雲が、世界各地に支部や会員を持つ黄道の会の実力者として、たいへん大きな影響力を持っていることは明らかで、今、黄道の会と日本の官憲が対峙し、欧開明が一時的なのかもしれなかったが、日本政府の軍門に下っている状況では、桐野富士夫は教務のトップであり、八雲が黄道の会の実務のトップと言っても過言ではなかった。この八雲に対して、来栖は自分と年齢もほぼ変わらなかったにもかかわらず、小心者の来栖はたいへん大きな畏怖の感情を抱いていて、来栖が母に八雲のことを説明するにあたっても、その視点から逃れることはできなかった。お蔭で、母は最初、八雲を黄道の会の最高幹部の一人で、切れ者で恐い人と説明したので、年配の人物と誤解したが、そのうち、来栖が八雲は年齢は自分とほぼ同じで、村役場の一職員だと伝えると、まるで理解できないようだった。
「……わかんないわねえ。その八雲と言う人は二人いるのかい?」母はそう言うと、頭をひねった。
また、八雲が折に触れて、故意になのかもしれなかったが、大衆の面前でよしこに対して、来栖がよしこの恋人であると思いこませるように暗示をかけていたことも母に話した。これを聞いて母はますます混乱するばかりだったが、ようやく息子の言葉から状況がわかってくると心から心配する様子で言った。
「……黄道の会はおとなしいお前を利用して、何かをたくらんでいるかもしれないよ……気をつけた方がいいよ……明日警察に聞かれたら、ありのままに話すんだよ。お前は悪いことは何もしてないんだから……」
久しぶりに再会した親子はその夜、遅くまで語り明かした……





