「来栖信一さん?あなたが来栖さんですよね?」来栖と友紀の前に現れたその男は、そう言って、来栖の顔を覗き込んだ。
「そうですが……」来栖は少し緊張して、答えた。
「私はこの村役場の村民課の土岐です。今度分校に赴任されるのなら、住民票の移動をやらなければならないことは、御存知ですよね?」土岐と名乗った男は、来栖にこう尋ねた。
「はい、ここに来る前に郵送で送って来た書類にそのことが書いてありました。それで、他の必要書類といっしょに、転入届を持って来ました。ああ、でも、いけねえ、今日は忘れてしまいまいした。明日持ってきます」来栖は答えた。
「そうですか。じゃあ、明日でもいいです」土岐はそう言うと、部屋を出て行こうとして、踵を返したが、また振り返って、こう言った。
「来栖さんは東京から来たんですか?」
「そうです」来栖は答えた。
「東京のFと言うところを知っていますか?」土岐は来栖に訊いた。
「はい」来栖は返事した。
「この村の大部分の人が黄道の会に入っているのは御存知ですよね?……Fには私たちの会の拠点があって、そこで布教活動をやっているのです。御存知ですか?」土岐は言った。
「はあ」来栖は少しピントのずれた反応をした。
「本部はこのY村です。たいへん恐れ多いことに、欧開明先生がこの村に住まわれているのです」土岐は自慢げに言った。
「私は申し訳ないですが、黄道の会に限らず、どんな宗教団体にも属さず、何の信仰も持っていません」来栖は言った。
「では、これから、日曜の集会に参加して頂いて、直に欧開明先生に接せられるとよろしいかと思います。どうですか?われわれの方針は、絶対に他人には入会を強制したりしないことです。ただ、われわれの教義に接し、ビデオを見て頂き、欧開明先生に直に会われると、どうしたわけか、みなさん、入会されます」土岐は以前から、他の大勢の人々に語りかけてきたのと同じように、来栖にも語りかけてきた。
「……わかりました。この村に来たからには、これは避けて通れないことなのでしょう。次回は今度の日曜ですか?」来栖は土岐に尋ねた。
「そうです。午前十時からです。是非来てください。場所は大講堂です。(友紀の方を見て)三輪さんも行かれますよね。場所を来栖さんに教えてあげられますか?」この土岐の言った終わりの問いかけは、友紀に対してだった。
「はい」友紀は答えた。
土岐は部屋を出て行った。来栖は友紀に尋ねた。
「大講堂って、どこにあるんですか?」
「ぶな屋敷から遠くないです。大講堂はたいへん大きいです」友紀は答えた。
「ぶな屋敷って?」来栖は自分が住んでいる建物が何と呼ばれているのか知らなかった。
「八雲さんから聞きましたけれど、来栖先生が住んでいるのが、ぶな屋敷と言うのだそうです」友紀は言った。
「えっつ?あの変なアパートが、そういう名前なんですか。でも、何かいわれがあるのかな。とにかく、ぼくが住んでいるところから遠くない所にそんな大きな建物があるようには見えないけれど……」来栖は信じられなかった。
「大講堂は地上から見えません。地下にあって、まるでシェルターのようです。行って見ればわかります」友紀は眼を伏せて言った。
「シェルター!?」来栖は驚いて叫んだ。
「欧開明先生のお話では、21世紀には核戦争の可能性があり、私たち、黄道の会の人々はそうした人類の絶滅の危機のときも、生き延び、そして、残った黄道の会の人々だけの国を作り上げるのだそうです」友紀は遠くの宙を見るような目つきで来栖に言った。
「核戦争?」来栖はまたも驚いた。
「欧開明先生のお話では、明日の朝、太陽が昇るのと同じくらい確実に、その日が来たら、核戦争は起こるだろう、とおっしゃっているからです」友紀は真顔で言った。
分校準備室と書かれた札が掛けられた部屋に入ってみると、来栖は八雲に紹介されて、自分以外にもう一人の教師がいるのを初めて知った。
それは若い女性の教師で、三輪友紀と言った。来栖は知らされていなかったように思っていたが、面接の時、低学年で一人、高学年で一人と教師の採用予定の説明があったとのこと。彼女は低学年の担当で、来栖は高学年の担当であるとのこと。また、音楽は彼女が担当し、体育は来栖が担当するとのこと。来栖は予想していなかったことだったので、すっかり驚いてしまった。友紀は来栖と話すとき、少しはじらうような、伏目がちで話をした。八雲が部屋を出て行くと、来栖は友紀に尋ねた。
「三輪先生はいつからここに?」
「先週の木曜日に来ました。もう一週間になります」友紀は答え、続けてこう言った。
「日曜日のここの集会に参加して、今、春休みで町から戻っている生徒たちと会いました」
「集会?」来栖は問い返した。
「はい。毎週日曜日、この村の人が全員集まる集会です。みんなで欧開明先生のお話を聞き、勉強します」友紀は静かに答えた。
「欧開明先生?」来栖は聞き慣れない名前を訝しげに問い返した。
「欧開明先生は源体宇宙論の創始者で、先生ご本人は日本で生まれ育った方だと聞いていますが、お父さんは中国の方で古代の思想家、ロージの子孫だそうです」友紀は答えた。
「ゲンタイ宇宙論?ロージ?」ますます、来栖は混乱しそうだった。
「わたしはここに来る前は知らなかったのですが、この村の人はほとんど全部、この会の人たちだそうです。会の名前は黄道(こうどう)の会と言います」友紀は言った。
「あなたも入会したのですか?」来栖は尋ねた。
「ええ。わたしの死んだ兄がこの会に入って活動していました。兄が生前、この村の名前を口にしたことがありましたので、面接の時に、村長に言いましたところ、大いに関心されて、会に入会することを条件に採用されたのです……もちろん、村長は兄をよく知っていたそうです」友紀は言った。
「お兄さんはなんで亡くなられたのですか?」この会に対して、漠然とした不安を感じていた来栖はこの質問を発せざるをえなかった。
「兄が亡くなったのは白血病のためでした。その短い人生の最後の時間をこの会の活動に捧げることができて、兄は本当に幸せだったようです……」そう言って、友紀は目頭が熱くなったのか、言葉が途切れた。
暫らくの間、間があいた。突然、内線電話のベルが鳴った。
「もしもし……」友紀が電話をとった。
「八雲ですけど、今夜、村の主だった人が出席する、宴会があるので、お二人に参加して頂きたいと。村長が申してます」電話をかけてきたのは、先ほど、来栖を友紀に紹介した八雲だった。
「宴会?」友紀はそう問い返して、来栖のを方を見やった。
「お二人の歓迎会も兼ねるので、お二人は会費を出さなくてよいそうです。」八雲は言った。
「ちょっと、待って下さい」友紀はそう言うと、来栖に八雲の話を伝えた。
来栖はその宴会に参加することに同意した。
「来栖先生も私も参加します」友紀は八雲に返事した。
友紀が受話器を置くと、来栖が尋ねた。
「今夜の宴会に来る人は、皆、会の人たちでしょうね?」
「わたしが聞いた話では、村の人で会に入っていない人は三人だそうです。瑞雲寺の住職、春名製材所の社長、エコロジストのシュナイダーさん……もちろん、来栖先生を入れると四人になります」友紀は言った。
「シュナイダーさん……?」来栖は繰り返した。彼は西洋人の名前が気になった。
「シュナイダーさんはもうこの村に十年くらい住んでます。この村で会の人たちが多くなる前からだそうです」友紀は言った。
「何をしているんですか?」来栖は尋ねた。
「環境保護の活動をしていて、時には、山の写真を取ったり、雑誌に文章を投稿したり、子どもたちを集めて、自然教室を開いたり、わたしは会ったことがあります」友紀は答えた。
「ああ、もしかして、あのシュナイダーさんなら、テレビの番組で見たことがあります。日本語がたいへん上手ですね」来栖は長身の西洋人を思い起こした。
「そうそう、テレビに出たことがあると言っていました」友紀もそれを肯定した。
「彼はどこにすんでいるか知ってますか?……」来栖がそう言ったとき、突然、とんとんとドアを叩く音がした。友紀が「はい」と言ってドアを開けようと、立ち上がる間もなく、ドアは開き、そこに三十代半ばと思われる一人の男が立っていた。
八雲の運転する軽ワゴン車は助手席に来栖、後部座席によしこをのせ、よしこを彼女の家に送り届けるため、よしこの家に向かっていた。
よしこは今はおとなしくなっていた。彼女の興奮は時として、かなり激しいものだったが、また別人のように、急におとなしくなる時もやって来るのだった。よしこがぶな屋敷の来栖の部屋になだれこんで、来栖につめよったとき、その後、突然、へなへなとその場にくずれおちてしまい、気を失ったのだった。今彼女は気がついたが、おとなしい状態が続いていた。
やがて、この地方では割と大きな農家である古敷の家に着くと、八雲はよしこを母親に預け、来栖と共に、村役場に向かった。
途中一台の車とすれ違った。それは発掘調査を終えて東京に戻ろうとしていた、黒木と雑誌記者、それにカメラマンだった。彼らが宝を発見したとは思えなかった。最初から発見をあてにしていたら、このようなあわただしいスケジュールのはずはなかった。しかし、宝を発見できなくても、黒木の言うとおりに掘ると何かしら、発見するものがあるので、話題として、報道することは可能であり、それを最初から目的としているようであった。もし、今回宝が発見されたりしたら、どういう対応になるかなどは最初から考えられていない感じだった。
村役場は大きな五階建ての鉄筋コンクリートの新築の建物で、こんな山奥の村にはふさわしくないような偉容を周りに誇示していた。まだこの村に来たばかりの来栖は、その当時はまだ村の状況をよく知らなかったので、企業からの税収があるとも思えないこの村に、このような建物を建設できる収入がどこから来たのか、不思議に感じた。
来栖は八雲に連れられて、村役場の中に足を踏み入れた。村長の大木は最上階の執務室にいるらしかった。二人はエレベーターに乗って、大木の部屋に向かった。
「村長室」と札のある部屋をノックすると、中で「どうぞ」と言う声が聞えた。
大木は机に座り、書類に目を通していた。来栖と八雲が入ってきて、大木にあいさつすると、大木は壁の大きな時計に目をやり、十時半なのを見て、言った。
「ずいぶん、遅いようだが、何かあったんかね?」
「実は、古敷のよしこがまた荒れまして。今度はこの来栖先生を追っかけて来て、迷惑をかけた次第で……」八雲は答えた。
「よしこは病院に入れなくてはいかんな。まったく古敷の家の者は何をやっとるんか」、大木はさも忌々しそうに言った。
「それと、浮浪者の勘吉がこんなことを……」そう言って、八雲は大木の傍らに行き、大木の耳にひそひそと何事かささやいた。
大木の顔色がさっと変わった。
「そんな。そんなことはあるわけはない……」とあわてふためいたが、ふと傍らにいる来栖に気がついて、えへんと咳払いすると、八雲に言った。
「さっそくだが、来栖くんを準備室に連れて行ってくれんか。しばらくはあそこに出勤してもらおう」
八雲は大木に「はい」と返事をすると、来栖に言った。
「この村役場の中に分校開設の準備室があるんです。これからそこにご案内します」
来栖は大木に一礼すると、八雲に連れらて、部屋を出て行った。
大木は二人が出て行くと、すぐに電話の受話器を手に取り、ボタンを押した。
「もしもし、駐在所ですか?村長の大木ですが、森本さんですか?あの浮浪者の勘吉が畑の作物を盗んで困ると言っとったが、あれは、やはり法的処置をするよう、お願いします」大木は電話の向こうの相手に言った。電話の向こうの相手は駐在所の森本らしかった。森本は大木に言った。
「あれっ?村長、よろしいんでしょうか?昨日は口頭で注意するだけにして欲しいとおっしゃってたじゃないですか?」
「いいんだ。また別の人からも苦情があってな。ああいうのを村の中に野放ししておいてはいかんのだ」大木は言った。
「わかりました。本署と連絡して、所定の手続を取ります」森本は了解した。
大木は受話器を置くと、煙草に火を点けて、静かに煙を吐き出した。
その煙の向こうにある、壁にかかった、曼陀羅にも似た不思議な絵図が、この部屋の中で一つの不調和をかもし出していた。
黒木、それに、雑誌記者とカメラマンはその場を立ち去っていった。彼らの後から、ショベルカーも原良と共にかすかなエンジン音とキャタピラのこすれる音を残しながら、遠ざかって行った。
「やくものばかやろう!せんせのいる所を教えないとぶっ殺すぞ!」よしこはきれいな顔に似合わない凶暴な声を出した。それはまるで悪魔がとりついているかのような、そのやさしげな顔から出るとは思えない声で、恐怖と戦慄を人に与えずにはいられなかった。
八雲はぶるっと震えた。そして言った。
「わかった。来栖先生がいるところを教えるよ……来栖先生がいるのは、ぶな屋敷だよ」ぶな屋敷とは、あの切り通しの空地にある奇妙な建物のことだった。よしこは言った。
「……ぶな屋敷。ぶな屋敷のどの部屋だ?」
「202号室……」八雲が答えたと思ったら、まもなく、よしこは、穴の上の渡り板にはいなくなっていた。見ると、よしこはウサギのように駆け出していた。
八雲もよしこを追いかけようとして、駆け出したと思ったら、何かにつまずいて、ばったり倒れた。そこには金村勘吉が地面に転がっていた。金村勘吉は村の中を放浪している浮浪者だった。彼は元々、窃盗か何かで、長く刑務所に服役していたらしかった。
八雲はしたたか脚と肘を打ったようで、顔をしかめて、いっとき痛みをこらえていた。
「どうなすったね?」勘吉は八雲に尋ねた。それは勘吉は八雲が自分につまずいて倒れたことを知らないかようだった。
「あいてて……見ればわかるだろう」八雲は少し憤慨して言った。勘吉はそれをいっこうに気にするでもなく、八雲に手を出して、こう言った。
「おにいさん。いくらか小銭をもってないかい?」
八雲はそれどころではないといった様子で、立ち上がり、ぱたぱたと泥に汚れた身体をはたいた。そして、彼は勘吉に向かって手を振って、その場を立ち去ろうと、歩き出そうとしたら、強い力で、勘吉に足首をぐうっとつかまれた。
八雲が振り向くと、勘吉は八雲の足首をつかんだ手と反対の手を、八雲に向かって差し出した。八雲はズボンのポケットから小銭入れを取り出すと、小銭入れのチャックを開いて、逆さにし、勘吉の手の中にいくらかの小銭をぶちまけた。勘吉はやっと八雲の足首を離した。足早に立ち去ろうとする、八雲の背後に勘吉の声が響き渡った。
「金をもっとくれれば、いいこと教えてやるぞ!」
八雲は振り返り、勘吉を見て言った。
「なんだ?」
「おまえさんたちの教祖のことだ」勘吉は言った。
「大導師さまだ。われわれの大導師さまを教祖などと取り違えるな!」八雲は少し憤って言った。
「その大導師さまのことだ。知りたいか?」勘吉は八雲に尋ねた。
「ああ」八雲はうなずいた。
勘吉は手を差し出した。八雲は千円札を一枚勘吉に渡した。勘吉の手は千円札を一枚握り締めて、そのままだった。八雲は仕方なく、千円札をもう一枚渡した。勘吉は二枚の千円札をふところにしまいこんだ。そして、勘吉はあたりを見回して、誰もいないことを確認しても、なお用心深く、口を八雲の耳元まで持っていき、手で八雲の耳を覆って声がもれないように、ささやいた。
八雲は驚きのあまり、身体が上下に揺れた。
「それはほんとうか?」八雲は勘吉に尋ねた。
勘吉はうなずいたが、八雲はどうも信じかねるようだった。
「そんなばかな……そんなばかな……そんなことはあるわけない!われらの大導師さまがそんなことをするわけは絶対にない!第一、大導師さまがそんなことはできないはずだ……」八雲はそう言って、混乱する自分を抑えることができないようだった。
勘吉はそんな八雲を横目に、立ち上がると、泥だらけのまま、そのまま、八雲を置いて、八雲の来た方角の方へ歩いて行った。八雲は勘吉の背中に声をかけた。
「おい……」
勘吉は振り返らなかった。突然、八雲は何か自分の信じていたものが裏切られたことを知ったかのように、悲嘆のあまり、泣き出した。嗚咽の声は止まらなかった、泣きながら、八雲はこぶしで地面を叩いた。
実はそこから少し離れた木陰で、よしこは彼らの一部始終を見ていた。よしこは不思議な面持ちで八雲をじっと見入っていた。
古敷の家では、よしこの母親が朝からよしこがいなくなったことに気がついていた。その日の前の晩から、よしこは何か落ち着かない感じでそわそわしていた。実はその前日の昼過ぎ、偶然、母と一緒によしこは来栖と八雲に出くわしていた。それはあの食堂の近くだった。どうやら、よしこは来栖に一目ぼれしたらしかった。来栖は実際、西洋人のような外見的特長を備えていた。日本人は西洋人的風貌にあこがれることがある。しかし、断っておくが、来栖の両親はまぎれもなく、生粋の日本人に違いなかった。
よしこの母親は、よしこが行きそうな場所に探しに出かけようとして、家から出たところで、八雲と出会った。八雲の家はそこから比較的近かった。八雲も何か急いでいるらしかった。よしこの母親の慌てた様子を見て、八雲は言った。
「おはようございます。なんだか、慌てているみたいだけど、何かあったのかな?」
「ああ、うちのよしこがまたどこかへ行ってしまったんだよ。昨日あんたといっしょにいた、先生、何て言ったかな?あの人を探しに行くって、言って、いつの間にか飛び出しちまったんだよ」よしこの母親は言った。
八雲はこれから、その「先生」を迎えに行くと言うと、よしこの母親はよしこを見つけたら、連れ戻してくれるように、八雲に頼んだ。しかし、よしこが来栖の居場所を知らないはずで、来栖の所に彼女が行き着くとは思えなかった。
八雲は来栖の住んでいるあの、切り通しの建物に向かった。よしこの母親も心あたりの場所を探しに出かけて行った。
八雲はあの宝探しをしている現場の前を通りかかった。例の如く、今日は雑誌記者とカメラマンが見守る中、黒木が指示し、原良がショベルカーで穴を掘り、宝探しを行っていた。立った今、一つの穴の探査が終わり、次の穴掘りに向かうため、穴の埋め戻しに入ろうとしていた。突然、周りの人間たちの「あっ!」と言う声が聞こえた。
よしこがいつの間にか、先ほどカメラマンが写真を撮るのに、穴にかけた幅四十センチくらいの渡り板の上を歩いて行って、ちょうど穴の真ん中のあたりでしゃがみこんでしまったからである。穴の深さは三メートル半くらいはあるだろうか。兼ねてから顔見知りの原良がよしこに声をかけた。
「よしこちゃん、あぶないから、こっちへ渡っておいで」
よしこはその問いかけを無視したまま、しゃがみこんで、じっと穴の底をのぞいているかのようだった。八雲が原良のそばにかけよった。
「どうしたんですか?」八雲は原良に尋ねた。
「ああ、あんたか。古敷のよしこが、あそこで動かなくなっちまったんだよ」原良はさも困ったように答えた。これから、雑誌記者とカメラマンが来ているので、時間の関係で、早く、今日二つ目の穴を掘らなければならなかった。
「おーい、よしこ~!何してんだよ?」八雲は大きな声でよしこに向かって叫んだ。
よしこは八雲の声を聞いて、ぎくりとした。顔を上げて、思わず、八雲の方を見た。
「よしこ、こっちに来いよ。そこにいたら、あぶないぞ!それに、黒木先生と原良のおじさんが、次の穴を掘れないだろう。穴を埋めないといけないんだよ。穴開けたままにしておくわけにはいかないんだよ」八雲はさとすように、よしこに話しかけた。
「あははは!」よしこは急に笑い出し、そして、しゃべり出した。
「やくものせがれ!くろきせんせはいないよ!くろきせんせはだって、昨日あったもん。ここに、くろきせんせはいないよ。くろきせんせがどこにいるか教えろ!!!」
「……うーん。あっ、そうか!よしこがいないって、言っているのは、くろきせんせではなくて、くるすせんせいだよ。くるすせんせいがどこにいるか、教えてあげてもいいけれど、その前に、そこから、こっちへ、来てごらん!ぼくのいる方へ」と八雲は言って、よしこが板の上の、穴の真ん中の危なげな場所から出ることを促した。
「いやだ!先に教えてくれなきゃ、ここを動かないぞ!」よしこは怒鳴った。
雑誌記者が見かねて、黒木に訊いた。
「(八雲を手で指し示して)ここはこの方にまかせて、こうするわけにはいかないですか?先生もお時間がないでしょうし、私たちも同じなので、この穴はひとまずこのままにしておいて、もう一ヶ所の例の場所に行くのは?この穴は後で、原良さんに埋め戻してもらうのはどうですか?」
黒木はちょっと考えてから、雑誌記者にうなずくと、ショベルカーの座席にいる、原良に向かって声をかけた。
「やすさーん(原良のこと)、今日は時間がないんで、これはこのままにしておいて、次の所に行こうか」
原良は黒木に向かって、手をあげると、ショベルカーは動き始めた。





