ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

朝鮮人参

2007-06-14 10:46:04 | Weblog
 画は有名な「朝鮮通信使、鶏泥棒の図」です。

 一行は大量の高麗人参を持ち込み、各地で金銀と交換し巨利を
 得ていました。

 かかさんに飲ませて女衒に手をとられ
 
 高価なことは今も変わらず、朝鮮から対馬を経て種子が伝わり、江戸幕府は人参奉  行を配し、人参座を開き、将軍吉宗公から種子が御下賜されたので「御種人参」と  尊称した。御種人参の栽培を諸藩に奨励したが、成功したのは島根(雲州人参)  と 福島(会津人参)、長野(信州人参)ぐらいで、日光の直射を避けての栽  培、 5~6年根の人の形を良しとし、栽培は難しいという。
 
「虚を補い実を寫す」といわれ、非常に疲れる・病気が長引く・スタミナが無い・胃 腸が虚弱・貧血・冷え性と、夫婦円満薬にもと、神秘的に薬効は伝えられている。 人参と引き換えに廓に売られる悲劇的美談も。

 私見ですが、当時の日本人はいはゆる低栄養状態で、慢性的低血圧、
 低血糖状態にあり、虚弱体質・肉体疲労・病中病後・胃腸障害・食欲不振・血色不 良・冷え性などの滋養強壮に効果があったのでしょう。

 『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社より、

 「通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいもの を、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外 の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなことも あったという」

 現在、多くの日本人、韓国人は、何人かの朝鮮通信使と日本の儒学者との間に親交 があったと思っています。それは、確かに一つの歴史的事実です。しかし、同時  に、朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、憤 りを感じていた日本人が多かったことも、また歴史的事実なのです。

 朝鮮通信使は、まるで頭の悪い不良中学生と同じですから、日本の庶民が、朝鮮通 信使は猫が大好物であると、彼らを笑い者にするような噂をしても、当然でしょ  う。布団のように嵩張るものさえ盗むのですから、持ち運びやすいものなどは、す かさず盗んだことでしょう。まさしく朝鮮通信使は国家使節の皮を被った窃盗団  だったのです。

 さて、また1764年4月6日。
 この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛 失しました。
 通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、
 「日本人は、盗みの仕方が上手だ」
 というような悪口を言いました。

 これに対応した鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も 無く日本人が盗ったと言われたのは「日本の恥辱」になると感じ、また、日頃から 通訳として朝鮮通信使のそばにいて、彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、
 「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食 器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」
 と言い返しました。


 そうです。朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。

 当然、接待役の武士は、このような朝鮮通信使の盗癖を知っていたでしょう。武士 たちは、国を代表する使節が宴会で出された料理の皿を盗むのを見て、驚き呆れて しまったことでしょう。こんな幼稚な人々に下手に関わるよりも、さっさと他領へ 送り出せばそれでよいと考えたとしても無理ありません。あるいは、朝鮮は清の属 国であることから、韓半島人を低く見て、可哀想だからと大目に見たのかもしれま せん。しかし、このような態度は結果として、朝鮮通信使を益々増長させることに なったのです。物を盗むことは犯罪であると教えてあげたほうが、朝鮮通信使のた めにも良かったと思います。


 鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう頭に血 が上り、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ちました。

 鈴木伝蔵は、下級の武士とはいえ武士です。このままでは、武士として生きていく ことができません。思いつめた鈴木伝蔵は、仕方なく崔を殺すことを決心します。

 その夜、鈴木伝蔵は、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。



 対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらしました。
 また、日本との貿易で大量の銀を得ていた朝鮮は、日本と貿易をしなければ、清と の朝貢や私貿易で使う銀に不足し、ますます貧乏国になっていったでしょう。
 一方、対馬藩を考慮外にすれば、日本は、朝鮮と外交関係を持っていることに何の 利益もありませんでした。
 日本と清とは国交が無くても、貿易関係があり、長崎の唐人屋敷や、その周辺に中 国人が滞在していました。黄檗宗の僧侶を始め、絵師、学者などの文化人も来日し ていました。中国文化は、朝鮮経由でなくても、直接、恒常的に入ってきていたの です。

 幕府権力が確立し、朝鮮通信使を朝貢使に仕立てることで対外的な力関係を他の大 名に見せつける必要がなくなれば、朝鮮通信使は無価値になりますから、朝鮮との 外交を止めても良かったのです。
 それは、朝鮮通信使の来歴をみれば分かります。江戸時代265年間に、朝鮮通信使 の派遣は12回でした。そのうち半数の6回が1655年までの江戸時代初期の50年間に 行われ、最後の1811年は江戸には来ず対馬止まりの来日でした。

 1607年、 1617年、 1624年、 1636年、1643年、 1655年、 1682年、 1711  年、 1719年、 1748年、 1764年、 1811年

 1636年、第4回の朝鮮通信使が来日した頃には幕府権力が安定し、朝貢使の役をさ せる朝鮮通信使の価値は低下し始め、先例として惰性で続けられたものの、1764年 をもって朝鮮通信使は完全に無価値になり、その使命を終えました。


 日本は、貿易によって対馬藩と貧乏な朝鮮を救うために、朝鮮と外交をしていたに 過ぎないのです。

 要するに、朝鮮通信使は、外交的に全く意味の無い国からやって来た、妙な音楽を 演奏する窃盗団でした。


 
  
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2 コメント

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てか (ホラフキ)
2007-07-07 12:28:33
通信使の記録にも書かれてるが

日本は朝鮮をぶっちぎりで発展してましたからね…通信使の記録にもびびりまくってるし



倭人を犬畜生と同等と認識していた朝鮮の人には自尊心が耐えられなかったんでしょう
Unknown (Unknown)
2010-03-13 00:07:15
低栄養うんぬんですが、同じ物を食べていたであろう戦前の日本人は(西洋人医師のベルツだったか)頑健であったとも言われていますね

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