ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

初かつをⅤ

2012-05-29 10:43:37 | Weblog
 画はヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)

 1632年~1675年

 17世紀にオランダで活躍した画家。       作


  「The_Girl_With_The_Pearl_Earring_(1665)」です。


☆曇り、ヒンヤリ、寒い。

さて、記事を肴に傑作をご覧あれ、

◆http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/272172027.html
心に青雲 2012年05月28日
フェルメールの絵の歴史的価値


ヨハネス・フェルメールは17世紀オランダの画家。日本でも人気のある画家であろう。
「フェルメール 光の王国展」が東京の“フェルメール・センター銀座”で開催されている。
 
その展覧会のポスターでフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見かけた。
この絵は美しい。感動的である。
なぜ感動的かというと、少女の美しさもさることながら、その歴史性にある。
ヨーロッパ美術史のなかで、美術が宗教(キリスト教)から離れ始めたのは
ルネッサンスが第一弾とすると、フェルメールあたりが第二弾なのである。

これは人類史上で、画期的な出来事なのだ。そして印象派が決定的に宗教から離脱する。

むろん日本では、織田信長が一向宗を壊滅させてくれたおかげで、
仏教寺院が露骨に政治に介入してくることがなくなり、
美術品も宗教から堂々と離れていけたのである。
ヨーロッパで美術作品が、ほぼ完全に宗教支配から脱して、
自由に藝術として制作されるようになるのは、19世紀の印象派からであるから、
事、美術のいわば独立性は日本のほうがはるかに早い。

フェルメールのころは、まだ宗教に遠慮がちで、こっそり室内で絵を描いていた。
だからフェルメールの絵は室内のものが多く、一連の作品は「フェルメールの部屋」などと呼ばれる。
ところが、印象派は屋外に出て絵を描き、それを街中に並べて売ったりしたのだ。

ヨーロッパにおいては美術品は、もともとはキリスト教会に納めるものであった。
画家は愚昧な僧侶にああしろこうしろと指図されながら、
マリアの像だとか、地獄へ行くぞと脅すような絵を描かされていたのである。

それが周知のように、14~16世紀にイタリアを中心にしたルネッサンスで
やや宗教の呪縛から解放される。
美術・音楽が教会だけの顔を向けていたありようから脱して、貴族向けに創られるようになる。
宮廷画家が誕生するのがルネッサンスであった。

17世紀に当時最も裕福だったオランダで、ブルジョアジーが勃興し、貴族らも豊かになって、
美術に入れ揚げるようになり、さらに宗教画とは一線を画す商人的画家たちが登場する。
これはオランダの商人たちが裕福になったものだから、
貴族のまねをして、オレにも絵を描いてもらおうと願うようになったからである。

フェルメールもその一人であり、ほかにもレンブラント、ハルス、
ラ・トゥールら絢爛と咲き誇った時代がきた。
詳しくはWikipedia の「オランダ黄金時代の絵画」をお読みになると良いと思う。

ただし、17世紀オランダの絵画黄金時代は、ブルジョアジーや貴族の館の私邸に置かれるだけで、
当然、美術館なんかないし、おおっぴらに皆に見せるために飾るなんてことは、
教会に逆らうのかとなるので、出来なかった。

なにしろまだ教会の支配力が強く、逆らうことはできなかった。
教会は貴族や商人たちにカレンダーを配っては、○日はセックスはしてはいけない、×日は肉を食うな、
△日は懺悔に来いなどと示されていて、執拗に縛りあげていた。
違反が露呈すれば、呼びつけられて説教され、罰金(献金)させられる。

だから、先にも言ったように、フェルメールや「夜の画家」と言われたラ・トゥールなんかが
室内の絵が多くなる理由は、まだ教会が恐ろしかったからである。


Vermeer、二枚目、



「View of houses in Delf_ known as ‘The little street’」です。


それがなんと、19世紀後半にフランスで印象派が誕生するにいたって、
ほとんど教会のクビキから解放されて、野外の花とか、かわいい女の子なんかを堂々と描いて、
一般庶民にも売るようになる。

モネ、ドガ、マネ、セザンヌ、ミレー、ルノワール、ピサロらが印象派となる。
知られるように、印象派は同時にジャポニズムとも共鳴する。日本の浮世絵などに衝撃を受けるのだ。
宗教から完全に自由に描いている日本の美術に大きく影響を受け、かつ、
画家を縛っていた「絵画は写実」という観念を解き放ったのである。

だから、今日の私たちも、いわば底抜けの明るさを印象派の絵画に感じる。
印象派のグループには、変な絵を描くと言われた。また画家の意志だけで描こうとしたから、
スポンサーがつかなかった。だから彼らは食うに困って、野外で絵を描き、
街角で自作の絵を並べて庶民に買ってもらうという事態が起きた。
やがて志を同じくする画家が集まって、展覧会を開くことになる。

これはれっきとした教会への反逆であったのだ。
ルネッサンスに始まり、17世紀オランダ絵画を通過して、
画家たちは教会、貴族、ブルジョワに服従させられた環境から抜け出していき、
ついに印象派で自由になったのだ。
しかし、そんなことは日本ではとっくに室町時代になされていたのである。

ざっと絵画の歴史をルネッサンスから印象派までを辿ってみた。
さらに余談ながら、絵画の歴史には、技術の進歩もあった。例えば絵の具。
ルネッサンスや17世紀フェルメールの時代は、
画家は職人ふうで、助手がいて絵の具を創ったり混ぜたりする作業をしていた。
 
あるいは創った絵の具はブタの膀胱やヒツジの腸なんかに詰めていたのである。
とてもじゃないが、野外に出ていって、
景色を見ながら直接絵の具をキャンバスに塗るなんてことは難しかった。

それがやがてガラスのシリンジとか鉛のチューブが発明されて、持ち運びができるようになった。
それで絵の具を混ぜる助手が不要になり、画家は一人で活動するようになった。
それが19世紀のことだから、絵の具のチューブの便利さも印象派の登場に大きく関係したのだ。

つまり絵具の技術的改良も、宗教からの離脱を後押ししたというべきか。

こうした歴史について、(株)サクラクレパスのホームページに
「絵具チューブの歴史」が書かれているので、興味がある方は覗いてみられると良い。
http://www.craypas.com/target/senior/colum/0712.php




「日本では、織田信長が一向宗を壊滅させてくれたおかげで、
仏教寺院が露骨に政治に介入してくることがなくなり、
美術品も宗教から堂々と離れていけた」


これはおかしいねぇ。 一向宗(親鸞の末流)は武家権力からの支配を拒否し、

武門&宗教 共和制(加賀など)を志向はしたが、

美術の規制など はなから無い、「親鸞伝絵」は作ったが、キリスト教社会と混同しておるわなぁ。

すでに鳥獣戯画、「12世紀 ~13世紀(平安時代末期~鎌倉時代初期)」 から自由なのさ、規制など無い。

お江戸の錦絵は検閲あり、大量印刷物ですから、御政道批判は御法度になる。



Vermeer、三枚目、



「The-art-of-painting」です。



◆http://www.belta.jp/wordpress/?p=1461
Office Belta  2008/8/20 水曜日
フェルメールブルー ラピスラズリとウルトラマリン

フェルメールの絵を「色」から観てみました。

よく言われるように、大きな特徴は「ブルー」

「真珠の耳飾りの少女」別名、「青いターバンの少女」や、
「牛乳を注ぐ女」に代表されるように、とても美しいブルーが印象的です。

深い味わいこのブルーは、フェルメールの名を取って、
フェルメールブルーと言われています。

この美しい色の絵の具を作り出す原料は、ラピスラズリ(瑠璃)。
アフガニスタン由来の貴重な鉱物です。「天空の破片」と称されるほど。

ラピスラズリは、アフガニスタンから、
地中海を越えてヨーロッパにやってきます。

海(マリン)を越えて(ウルトラ)やってくるこの石を使って作られるので、
ウルトラマリンブルーと名付けられました。

17世紀当時、ラピスラズリは金よりも高価でしたから、
画家達は聖母マリアのマントなどの限られたものしか使いませんでした。

その絵の具を、フェルメールは遠慮無く使って絵を描くのです。
なんと、ドレスの下地にまで。当時としては常識はずれの使い方です。

自分の「美」を追求するあまり、のことなんでしょうね。

フェルメールが亡くなったとき、多額の借金があったそうですが、

うなづけますね。

でも、そのおかげで、今、
こんなに美しい絵を観ることができるんですものね。

<略>



西暦1665年といえば寛文5年、将軍は第4代・徳川家綱の時代ですねぇ、

「真珠の耳飾りの少女」は手前が最初に書いた人物画、

習作「青いターバンの少女」としてUPしております。

やや子供っぽくてギョロ目の少女になってしまいましたがw

ま、これで風景画ばかりではなく、なんとか人物画も、やってみるか、

というキッカケになった名作で、手前にとっても感慨深い作品です。


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