ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

涼もとめ

2010-07-27 10:17:37 | Weblog
 画は歌川広重(1797年)~(1858年)

 (安藤広重)号は一立齋(いちりゅうさい)  作


 「撰出江戸四十八景」 「高輪うしまち」です。


☆降ったり止んだり、妙な天気です。

ムシ暑い。

さて、画は変えましたが同じ画題です、

◆http://www.epochtimes.jp/jp/2010/07/html/d11347.html
◎【今に伝える江戸百景】 東京に海があった頃

【大紀元日本7月26日】歌川広重の『名所江戸百景』に、
「高輪・牛まち」と題された一枚がある。

高輪(たかなわ)は、品川近くの現在の地名にも残されているので、
なんとか見当がつくが、牛町の名はついに地図からは見つけられなかった。
その旧地名を知る人は、おそらく地元にもいないだろう。

広重の浮世絵はいずれも秀作であるが、この「高輪・牛まち」もまた
見事な作品である。のどかな夏の海辺の風景。
地面に捨てられた西瓜の皮、大八車の車輪、そして空高くかかる虹の輪という、
大小三種の曲線からなる構図の中に、手前には子犬、
遠景の海上には帆を張った舟が配置されている。それが有機的に働きあって、
まさに生きた絵になっているではないか。

それにしても江戸の頃の高輪には、こんなに青い海があったのか。
沖合いの舟は魚を獲る漁師の舟のようだ。

江戸っ子は無類の魚好きだったという。天保年間の1831年に書かれた
『魚鑑(うおかがみ)』という書物には、全国各地から様々な種類の魚介が
日本橋の魚河岸へ届けられていたことが記されている。

とは言え、氷も冷蔵設備もない当時、例えば外洋の魚であるカツオを、
できるだけ鮮度を落とさずに銚子から江戸へ急送するのは至難のこと
であったに違いない。逆に考えれば、それだけの対価を払ってでも
口にしたかった江戸っ子の気持ちが窺われる。
「女房を質に入れても」は、そのあたりの心理を表現したもので、
決して奥方を軽んじたのではないと言い訳しておこう。

もちろん庶民は、高価なカツオではなく、江戸前の海で獲れる安い魚を
食べていた。夏場は、やはり鮮度保持の問題があるので、
1日に2回(通常は1回)魚河岸が開かれる。そこで仕入れた新鮮な魚を、
威勢のいい棒手振り(ぼてふり)の魚屋が得意先のルートを回って、
とにかく魚の目が死なないうちに売り切ってしまうのだ。

思いを巡らせていたら、ふと東京の海が今どうなっているか見たくなった。
もともと江戸は、日比谷入り江と言われるほど
海が内陸まで伸びていた土地であったが、今の東京は海などどこへ行ったやら。
私の意識からも、海は遥か遠くなっていたようだ。

梅雨明けの暑い日。品川駅から東に向かって20分ばかり歩き、
運河を一つ越えた。埋立地に挟まれた運河の水は、
目を逸らしたくなるような色をして澱んでいる。
そのすぐそばに、この地にあった東京水産大学が、
江東区越中島の東京商船大学と03年に統合して開学した
東京海洋大学の品川キャンパスがある。
守衛の人に聞くと自由に見学できるそうなので、校内に入らせてもらった。

試験も終わり、スポーツをする学生以外に人気のない静かなキャンパス。
その片隅に、かつて多くの実習生を乗せて外洋航海をした3本マストの帆船が、
今は陸上に置かれて展示されていた。船名は雲鷹丸(うんようまる)。
全長41メートル、総トン数444トンで1909年から約20年間活躍した
という。海から遠くなった白い帆船と、しばし静かな対話をした。

キャンパス内の岸壁を歩く。対岸には巨大な倉庫。
足下の運河の水は茶色く濁っている。生き物がいるような水には見えず、
立ち去ろうとしたとき、茶色の水面に良型のボラが跳ねた。
東京の海から声をかけられたような気がした。


※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、
最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。
作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。
目録表紙と118枚の図絵(二代目広重の1枚も加えると119枚)からなる。

(牧)


CIAがバックといはれる【大紀元】でしたがw

話し変わり、ロシア、

◆http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010072500205
◎「対日戦勝記念日」制定=北方領土支配を正当化-ロシア

【モスクワ時事】ロシア大統領府は25日、メドベージェフ大統領が同日までに、
日本が1945年に第2次大戦の降伏文書に調印した9月2日を
「第2次大戦終結の日」に制定する法改正案に署名したと発表、
改正法が成立した。

事実上の「対日戦勝記念日」の法制化で、
北方領土の実効支配を正当化する狙いがあるとみられる。
 
法改正案の趣旨説明では、ソ連軍の対日参戦により、
満州や北朝鮮、北方領土を含む千島列島が「解放」され、
第2次大戦の終結を早めたとしている。
ロシアのラブロフ外相は、先に終戦65周年の節目に当たり、
対日戦勝記念日制定の意義を強調しており、
サハリン州など極東を中心に各種の記念行事が行われるとみられる。

(2010/07/25-21:36)

◆http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010072600570
◎ロシア側に抗議せず=「対日戦勝記念日」制定で-外務副大臣

武正公一外務副大臣は26日午後の記者会見で、
ロシアが事実上の「対日戦勝記念日」を制定する法改正を行ったこと
について、「対日戦勝など日本への言及は(法律に)含まれていない。
ロシア側はわが国の立場に一定の配慮を行った」と述べ、
ロシアへの抗議などは行わない考えを示した。

この法改正は、第2次大戦の降伏文書に日本が調印した9月2日を
「第2次大戦終結の日」と定めたもので、
旧ソ連の対日参戦や北方領土占拠を正当化するのが狙いとの見方がある。
これに関して武正副大臣は、
「今後の日ロ関係に否定的影響を与えないことを期待している」と語った。 

(2010/07 /26-16:36)


「売られた喧嘩は買う」ことです、何故「抗議」せぬ。

「解放」とは笑わせる、「条約破りの火事場泥棒記念日」なんだから。

北海道北半分、危なかったわけです、

占守島第91師団(師団長:堤不夾貴中将)をはじめ旧軍の奮闘のたまものですよ、


◆http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog203.ht
◎地球史探訪:終戦後の日ソ激戦   より抜粋、

☆1.北海道北半分をソ連に

1945(昭和20)年8月16日、終戦の日の翌日、
スターリンは米大統領トルーマンに対して、
釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道の北半分に対して、
ソ連側の占領を認めるよう要求を送った。

同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められていたが、
これをさらに北海道北半分にまで拡げよ
というのがスターリンの新たな要求だった。
樺太、千島列島、北海道北半分をソ連圏内に収めてしまえば、
オホーツク海はソ連の内海となり、太平洋への出口も自由になる。

このスターリンの野望により、終戦後も
激しい日ソ間の戦いが樺太と千島で展開されることになった。


☆3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸
 
日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、
アメリカは即座に全軍に戦闘停止命令を発したが、
極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、
樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部の占領を命令した。

樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実である。
さらに継戦の必要があった。

千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心に、
約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端とは
わずか10キロ余の海峡をはさみ、
ソ連極東から太平洋への出口を扼する戦略拠点であった。

ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8千3百余名で、
18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上陸を図った。
まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分に積んでいた
海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射砲などで
猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。

撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、
3千人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試みた。
この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返された。

堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。

しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに
戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行を
ソ連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、
長島大尉も単身敵中に潜入して行方が分からなくなった。
日本側が反撃行動を停止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。

19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始まった。
何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の調印が行われた。
一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島を南下しようという
ソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大きく狂ってしまった。

ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、
ソ連側は1,567名であった。
イズヴェスチャ紙は
「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。
8月19日はソ連の悲しみの日である」
と述べてた。激戦の行われた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。



如何に「気概」が大切か、「自分の国は自分で守る」というあたりまえの覚悟が。

アメ公の虚構の「抑止力」がどうたらあーたら、愚劣極まるわけで。

まさに、日本人の性根を腐らす、それが「日米安保」体制なんですよ。

手前はロシアは「脱米」の有力な手駒になると以前より書いております。

が、だからといって「舐められたらお終い」なんで、

「友好」と「迎合」は全く異なる、異国を信用するのはバカの極みですから。

まず、「専守自主防衛体制」構築からですよ。
コメント   この記事についてブログを書く
« 夏本番へⅤ | トップ | 涼もとめⅡ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事