5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

痛む魚の目

2018-04-03 21:26:08 |  文化・芸術

今日の名古屋の最高気温は27度丁度。午後の日差しに広小路通りの街路樹の緑が一段と鮮やかに映る。初夏の気分だ。シャツ一枚でもOKである。耳に入れたレシーバーからは、復活祭を過ぎたニューヨークは雪だというから、同じ北半球でも大気の動きがずいぶん違う。

記録を調べてみると名古屋で27度台の最高気温を記録した初日は、去年が5月5日、一昨年が4月17日だった。「早すぎた満開は想定外 葉桜まつり嘆き節」というリードが読めるほど、今年は暑いのだ。

「行く春」は春の季語。暦ではもう少し先の感じがするが、体感では春が行ってしまいそうだ。

過行く春を行く春と擬人化した最初は紀貫之の「花もみな散りぬる宿は行く春のふる里とこそなりぬべらなれ」という歌だというのは「季語集」の坪内稔典先生である。花散る宿を春の古里に見立てた歌だが、見立てといえば、芭蕉の「奥の細道」の冒頭、「月日は百代の過客」が思い起こされる。歳月を永遠の旅人に見立て、自分も同様の旅人だと自覚していたのだという。

「行く春や鳥啼き魚の目は泪」

「これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず
  人々は途中に立ち並びて、後影のみゆるまではと、見送るなるべし」
 
と芭蕉は旅立ちの日に詠んでいる。旧暦の3月27日。カレンダーで調べてみると、今年は5月12日になるから、まだ1月以上先のことだが、元禄2年は「行く春」という季語がぴったりだったのだろう。

坪内先生はこの句に関する面白いはなしを紹介してくれている。何処かの集まりでこの句を話題にしたら、「行く春を惜しんで鳥は鳴くが、私は足に出来た魚の目が痛んで涙を流す」という意味ではないのかという質問があったのだそうだ。

なかなかユニークな解釈だが、早朝に芭蕉庵を出て舟で千住大橋あたりまで隅田川を遡ったあと、舟をおりて句作をしたとあるのだから、さほど歩いてはいまい。芭蕉先生も魚の目が痛んで涙が出たということはなかっただろう。「行く春を惜しんで魚も泪を浮かべる」という見立てが大事だろうと、坪内先生は句作者のコメントを返したらしい。

春が過ぎれば、直ぐにやってくるのは猛暑の長い夏。思うだにうんざりする。「家の作りやうは、夏をむねとすべし」という兼好さんの教えが身に堪えそうだ。今年は特に行く春を惜しんで泣いておかねばなるまい。



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