「人生は死への前奏曲にほかならない」という、リストのレ・プレリュードの主題が頭のなかで繰り返し浮かんでくる。体の調子がイマイチなのが影響してだろうか。今日も、サンデーホースレースに行く道で、馴染みのテーマを口ずさんでいて、こう思った。
英語はSEEという動詞で、日本語の「見る」と「逢う」という2つの意味を同義としている。サラリーマンの日常と非サラリーマンの生活では、その活動時間や範囲が異なってくるのだから「逢え」なくなって当然だが、人生の節目を過ぎてしばらくすると、昔の仲間を偶然に「見る」こともすくなくなるのだ。だからさびしいということではなくて、こういう事実があるということが云いたいのだ。
万歩を日課にしている身としては、今でもほとんど毎日、現役時代とほぼ同じ時間の帰り電車を利用する。リタイアした直後には、会社の同僚だったり、異業種交流の仲間だったり、また、毎日同じ駅で降りる名前も知らないサラリーマンだったりを、結構、よく「見て」たまには挨拶を交わすこともあったのだが、近頃は、こういうことが、ほとんどなくなってきたのだ。
こちらが、同じような帰宅習慣をつづけているわけだから、変わったのは先方さんたちなのだろう。彼らもサラリーマン、定年もあれば、転職や転勤もある。 たとえは悪いが、エサ場のかわった小動物とおなじで、行動範囲がズレるととんと見かけなくなるのだ。しっかりとした繋がりだと思っていたビジネスでの人間関係だが、二つの円弧の交わる部分はほんの一部分であり、ほんのちょっとしたタイミングでチェインは簡単に外れて二つの環はばらばらに分かれていってしまう。分かれた環が係わることはもはやないのだ。
しかし、英語ではHEARという動詞に、やはり「手紙で消息を知る」というという意味と「聞く」という二意を持たせている。「見る」ことの遠のいた彼らとも「手紙で聞く」チャンスが残れば、ミッシングリンクが再び繋がることもあるかもしれないではないか。
今年の年賀状もさほどの減りをみせてはいないし、電子メールのやりとりを、ROMとしてだが、楽しんでいられるのは幸いなるかなである。50円の葉書一枚、無機的なインターネットが、はたす役割は案外大きい。
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